物理主義。 物理主義でクオリアは解決できるか?その2

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物理主義

物理主義でクオリアは解決できるか?その2 (2)客観化の問題 たとえば、僕が、 僕自身の脳を実験材料にして、 脳とクオリアの関係を明らかにできたとしよう。 それはそんなに難しいことではない。 そしてさらに、ほんのちょっとだけ勇気を振り絞って、自分の頭蓋骨をこじあけて脳に電極を刺し、電気を流して、無理矢理、脳の状態を「A」にしてみよう。 だが、まぁ、そこはいいのだ。 説明がつかないものは、つかないものなのだと謙虚に受け容れてしまえばいい。 科学 物理主義 は、何もすべてを説明しなければならない、という義務があるわけじゃない。 そうすれば、なんとかクオリアを科学理論として扱うことができそうである。 だが、しかし。 ここにもうひとつ、「 えいや!」と乗り越えなくてはならない壁が存在する。 それは、自分の脳を使って「脳とクオリアの関係」を調べたとしても、 その関係を、他人に伝えることができない、という原理的な問題である。 これが、2つ目の問題だ。 この問題の要点は、簡単である。 「 おれのクオリアは、おまえにはわからない(観測できない)」 「 おまえのクオリアは、おれにはわからない(観測できない)」 「 だから、おれとおまえで、 互いにどんなクオリアを感じているか、 伝える(説明する)ことができない」 というだけの話である。 もう少し具体的に言おう。 たとえばの話し、 「 きいてくれよ!ついに、脳とクオリアの関係がわかったんだ!」 と言って、僕は自分の頭蓋骨をこじあけて、脳を取り出し、 「 いいかい?脳のここがこんなふうに動いてるとき、赤のクオリアを感じるんだ」 と言って、目の前の他人に、脳が動くところを見せつけたとする。 しかし、他人からすれば、そんな説明を受けたって、僕が実際にどんなクオリアを感じているかは、知りようがないのだ。 「 えー。 そんなふうに脳の状態を見せられてもさ、君がどんなクオリアを感じてるか、僕には知りようがないじゃないか。 そこで、僕は、電子顕微鏡を取り出し、もっともっとより細かく、相手の脳細胞の1本1本の動きを観察してみる。 すると、 「 ふむふむ、視神経から伝わった刺激が、こういうルートを通って、ここにつながって、ここの神経に刺激を伝えるから……、ふむふむ、それで、おまえは『ア・カ・ガ・ミ・エ・ル』と答えるわけか」 という具合に、脳細胞の動きだけで、相手の行動がすべて説明できてしまうのだが、やっぱり、そこにクオリアなるものは一切出てこない。 クオリアを持ち出さなくても、相手の行動がすべて説明できてしまったのだ。 結局、どんなに、相手の脳を眺めても、そこには、 脳細胞という神経が、物理的な条件にしたがって、隣の脳細胞に、延々と刺激を伝えている、という歯車的な機械しか見つからない。 「 だめだ。 やっぱり、おまえの脳をどんなに眺めても、どこにもクオリアはでてこない……。 おまえがどんなクオリアを感じているのか、皆目見当もつかない。 そして、他人に伝えることができないということは、みんなでその関係性の理論を共有して、検証するという作業ができないのだから、その関係性が、本当に、自分以外の他人にも成り立つ普遍的なものなのかどうかを確認することもできない。 もちろん、こんなふうに反論する人もいるかもしれない。 「 いやいや、そんなことないだろう。 誰の脳であろうと、物理的に、まったく同じ脳の状態を再現したら、まったく同じクオリアを感じるに決まっているでしょ」 しかしである。 他人がどんなクオリアを感じているか確認できない、という事実がある以上、確認できないものは確認できないのだから、確認できないものについて、何事も断言することはできない。 だってだって、もしかしたら、 未知の粒子があって、その粒子が脳細胞と干渉することで、クオリアを感じるという仕組みかもしれないじゃないか! もしかしたら、目の前のあの人は、その 未知の粒子が脳に入っていなくて、実は、まったくクオリアを感じずに、 ただ脳細胞が機械的に「赤いね」と音声を発しているだけかもしれないじゃないか! もちろん、何の根拠もなく、未知の粒子を持ち出すのは、まったくのナンセンスである。 でも、実際のところ、「 なぜ、脳細胞が集まると、クオリアがでてくるのか」ということについて、 既存の物理学ではまったく説明できないのだ。 だから、そこに 未知のメカニズム、 未知の要因があると考えても、それほど飛躍した考えというわけでもない。 それは、つまり、 「 クオリアを、科学として取り扱うことは出来ない」 という結論を意味する。 (補足) だが、まぁ、いいのだ。 上で述べている話は、すべて 厳密に考えたときの話である。 世の中、厳密に考えすぎたら、どんな理論も構築することなどできない。 たとえば、「水を電気分解すると、酸素と水素になる」という理論があるが、実際のところ、宇宙に存在するすべての水分子について、電気分解を行って確認したわけではない。 だから、「 この理論は、本当に正しいかどうか確認されたものじゃないのだから科学ではない」と疑うことは可能である。 (だって、すべての水分子について、確認したわけじゃないのだから) だってだって、もしかしたら、 未知の粒子があって、それが水分子と作用していたから、酸素と水素に分解していたのかもしれないじゃないか!だから、もしかしたら、何かの要因で、この未知の粒子が、突然、宇宙から消え去り、今後二度と、水を電気分解しても酸素と水素にならなくなる……ということだって起こりえるかもしれない! 結局、そういう 厳密さや 未知の可能性までも考えたら、「水分子を電気分解すると、酸素と水素に分かれる」という理論すら述べることはできない。 そこまで疑いを広げたり、厳密さを求めてしまったら、そもそも、どんな科学理論も成り立たないのだ。 だから、科学としては、どこかで「えいや!」と 「 これ以上は、疑いません!」 「 これ以上は、細かいことは問いません!」 という基準(暗黙の了解)を決めてやらなくてはならない。 そして、その基準(暗黙の了解)の上に、科学理論を構築するしかないのだ。 これは、どんな科学理論であろうと同様である。 少なくとも、科学(物理主義)にしたがうなら、 「 ある物理状態が再現されれば、毎回必ず、同じ物理現象が発生する」 というのは譲れない 前提であるはずだ。 だって、月と地球を目の前に持ってきたら、そこには、必ず、引力が発生するはずである。 物理的に同じ条件なのに、あるときは発生して、あるときは発生しない、なんてことはありえない。 ある質量を持った物体が、2つあったら、そこに必ず「引力」が生じる。 こんなふうに、「 ある物理状態を再現したら、必ず、それに対応する物理現象が生じる」ということを「 信じる」のが科学であり、科学はその信仰によって成り立っている。 したがって、自分の脳を使って、「こういう物理状態になったら、こういうクオリアが浮かぶんだ」ということが確認できるとき、「 他人の脳だって、同じ物理状態になったら、同じ現象が起きるはずだ」と物理主義者が考えるのは、とても妥当なことだと言える。 たしかに、他人がどんなクオリアを感じているか知りようがないよね。 でも、いいじゃないか。 科学的には、これで十分さ」 と割り切ってしまえば良い話で、物理主義者にとって、それほど問題ではないのである。 では、最後の「 3番目の問題」へ移ろう。

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よみがえったソクラテス(魂と可能世界)

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登場人物: 毒ニンジンを飲んだ後のソクラテス 物理主義者の猫「ミタマ」 アテナイ市内の牢獄の中。 毒杯を仰いだソクラテスは、しかし、毒が効かずに数時間後に目を覚ましてしまう。 独房の入り口近くから、なにやら猫の姿をしたものがこちらをぼうっと見ている。 ソクラテスは、急に空腹を覚えた。 可能世界とあの世(輪廻転生) ソクラテス: う~、やけに腹が空いた。 ここはいよいよ、イデアの楽園か、はたまた死者たちの魂が集うという冥府ハデスか? しかし、はて面妖な。 死んで魂だけになったというに、まだ腹が空くとは・・・。 しかもここは、クリトンやケベス、シミアスたちがいたときのままの、あの牢獄ではないか。 それに、わたしの70年来の友にして、敵であるこの手足。 少なくともわたしの魂は、身体という経帷子をまだ脱ぎ捨てていないものと見える。 おや、おまえは? 猫: ソクラテスのおじいさんというか、どうみてもジジに見えないから、オジサンでいいわね、ソクラテスの可能的本人のオジサン、あたしは猫のミタマよ。 ここはオジサンが囚われていたアテナイの牢獄で、オジサンはオジサン本人だけど、世界が違うのね。 ここは、ソクラテスの現実的本人が毒のせいで死んだ現実世界とは違って、毒が効かずにオジサンが生き返った可能世界なのよ。 だから、ここは天上の何とかでもなければ、イデア界でもないし、黄泉の国でもないわ。 オジサンは現実世界では死んだけど、この可能世界では死んでないってわけね。 でもってあたしは、すべての可能世界を股にかけて、のぞき見をする、ちょっと約束違反の猫。 でも、あたしは本当は存在していないんだから、気にすることはないわ。 ソクラテス: なんだって、無茶苦茶な話だ、分けがわからんぞ。 わたしはわたしであって二人ではなく一人なんだから、そのわたしがどこであろうと死んでいて、なおかつ同時に死んでないということがどうしてあるのだ? 猫: それはちょうど、「オジサンがもう少し背が高かったとしたら」とか、「あのクサンティッペのオバサンと結婚していなかったとしたら」といったように、現実とは違うけどありうるかもしれないような状況を考えたとき、現実のオジサンとありうるオジサンと、二人のオジサンがいて、しかも二人ともソクラテス本人だってこと。 だから毒ニンジンで死んじゃったオジサンは現実世界のソクラテスで、死にそこねちゃったオジサンは可能世界のソクラテスってわけね。 可能世界って、ひとまずは、ある人物や出来事が現実世界とは別の性質や関係を持っているような世界だ、って考えていいわ。 そうすると、ある人の性質が現実世界と違う仕方は無数にあるから、可能世界の数は無限にあって、そこから、可能性と必然性を定義できるようになるの。 いいこと、ある事柄が可能的なのは、それが成り立つような可能世界が少なくとも一つはあるということ。 そして、どんな可能世界でも成り立つような事柄があったら、それは雨が降ろうが槍が降ろうが、何がどうあっても成り立つということなんだから、ある事柄が必然的なのは、あらゆる可能世界でそれが成り立つということになるわね。 でも、必然性にも程度があるのよ。 ついでに、この種のお話で大事な同一性の必然性はどうかというと、それは、あるものとあるものがある可能世界で同一なら、その同一性は端的にあらゆる可能世界で成り立つ、という意味で論理的真理と同じ一番強い必然性(形而上学的必然性)だと言われているわね。 ソクラテス: まてまて、よく喋る猫だな、存在もしていないと自分で言っておきながら。 わたしがクサンティッペと一緒にならなかった世界とは、これまた有り難い世界のように聞こえるが、それにしても、可能世界とは聞いたこともない新説だ。 現実世界がこの世で、可能世界がこの世でないなら、可能世界はあの世である他はなかろうに。 この世から立ち去った者がたどり着く先はハデスであり、そこには、この世の神々に劣らぬよき神々が住まわれ、またよき仲間の人々が集っている。 猫よ、いやミタマだったかな、おまえの言う可能世界、つまりハデスにソクラテス本人が存在しているなら、それはソクラテスの肉体から解き放たれたソクラテスの魂であろう。 そして、口やかましくなく言えば、一般に魂は、この世では肉体と感覚によって曇らされているが、あの世では浄化されて魂そのものになり、その魂のこの世での常日頃の習いにしたがって、神霊とともにハデスにとどまるか、あるいはまた、人間や動物に姿を変えてこの世によみがえってくる。 なぜというに、魂は不死だからだ。 物理主義(物的一元論)と魂(心) 猫: それは二元論そのものね、魂が不滅だなんて。 物理主義ではそうは考えないわ。 物理主義では、魂や精神や心や知性(ヌース)や、その他なんて呼んでもいいけど、要するに、物質とはまったく無関係にそれだけで存在するような心的実体(個体)は存在しえないと考えるのよ。 言うなれば物理主義は、少なくとも、実体に関しては物的一元論ね。 それに、可能世界はオジサンいうあの世、つまりハデスなんかじゃないの。 だってオジサンの言ってるあの世は存在するとすればただ一つ、現実世界のあり方から因果応報的に決まっちゃう世界でしょうけど、もし可能世界があの世なら、あの世が無数に存在することになっちゃうものね。 それから、逆にあの世が可能世界の一つだとしても、そんな可能世界は、少なくとも現実世界の近くにはないわね。 だって、オジサンの言うハデスは、魂がそれだけで存在しているような二元論的世界だから、物理主義によれば、さっきの自然法則的な可能世界群の中には存在しないし、存在しても、現実世界から遠く遠く離れた可能世界として存在するにすぎないか、場合によっては、いかなる可能世界としても存在しないと言われたりするわ。 ソクラテス: これはまた、なんと情けない言論であることか。 魂がそれだけで存在することができないとは。 だが、こんな卑しい猫の姿をしているとはいえ、言葉はまともだ。 もっとも、言葉だけだがね。 これ、ミタマよ、おまえの言論を異教の神に捧げられる呪文として聞くのも、少しは時間つぶしにはなるだろう。 どうやら、看守の者が言っていたように、二度目の毒ニンジンを飲むまでのな。 では、おまえの言う物理主義では、魂とはいったい何なのだ? 猫: 魂、もっとふつうに言って心は、肉体の一部である脳の活動に他ならないわ。 とくに機能主義では、その脳の活動は、肉体の生存のために、環境からの情報を取り入れ、適切な思考や意志作用を行い、うまく行動するための一連の情報処理だと考えられているわね。 ソクラテス: おやおや、それはまた何とも奇妙な暗合だ。 先ほどシミアスが語ってくれた魂の調和説を思い出させる。 シミアスは、わたしにこう不安げに語ってくれたものだ。 われわれの肉体には、熱とか冷とか乾とか湿とかの反対的諸性質があるが、それらが「適切な比でお互いに対してほどよく合わされるならば、まさにそのときに生じてくるそれらの諸要素間の和合なり調和というのが、とりもなおさず、われわれの魂というものに他ならない・・・」とな(『パイドン』86c)。 猫: にゃ~。 調和が機能かどうかは知らないけど、肉体の諸要素の何かの組み合わせが「とりもなおさず、魂に他ならない」というのは、当たっているわね。 物理主義は、心をそんな風に考えるのよ。 少なくとも、心的な実体や心的な出来事や心的な現象と考えられているものは、すべて本当は物理的なものに他ならないと。 でも、用語で混乱しないようにしたいわ。 この種の存在論の基本的な枠組みは、<個体>と<個体がもつ性質>の二つ。 で、「実体」とか「出来事」とかいうのは個体の別名なんだけど、「現象」とか「状態」という言葉は曖昧ね。 ときには、個体を指すつもりで使われることもあるけど、大体は性質の意味だわ。 少ししっくりこないかもしれないだけど、「脳がしかじかの状態である」というのは、「脳という個体(人物という個体の部分となっている個体)が<しかじかである>という性質をいまもっている」ということ。 まあ、存在論って、なんて厄介なんでしょ。 オマケにもう一つ。 存在論ではよく、「これこれの性質が例化される」って言うけど、これは、その性質をもった個体が存在するようになるってことなの。 さしずめ、あたしは、<猫である>っていう性質の例化ね。 それとも、<美しい>って性質の例化かしら? ソクラテス: では、これもまたケベスが心配したように、物理主義とやらによれば、「ひとが死ぬと、同時に、魂は散り散りになり、それが魂にとっては、存在することの終わり」(同、77b)になるのだね。 それは、ちょうど、調律された音の調べ(調和)が視えざるものであり、非物体的なものであるのに、この竪琴が壊されたり、弦が切られたりしてもなお、どうして調律された音の調べの方は、滅びることもなくなおも存在することがありえようか、という異議申し立てなのだな。 猫: ソクラテスのオジサン、その通りのようね。 ソクラテスは脚をさすりながら、さらに興味を引かれたかのように、寝台から身を起こして尋ねた。 ソクラテス: それではミタマよ、もう少し聞くが、物理主義によれば、心的なものはこの世でもおまえの言う可能世界でも、もうまったく何も存在しないのか? それとも、まさかこの舌のしびれや、脚の痛みや、真なる思いなしや、知性の働きまでも、物であるとは言えなかろうに。 還元的物理主義と非還元的物理主義 猫: 確かに、実体としてではなく、性質としての心的なものの存在は難しいわね。 物理主義者の間でも、意見が分かれているわ。 それに、ふつう性質には、カテゴリカルな性質と傾向性的な性質の区別があって、機能主義でいう心的性質は傾向性的性質の一種だっていう主張も、これに微妙に関わってるの。 カテゴリカルな性質とは、「こうです」って素直に言えるような性質だけど、傾向性的性質はそうは言えずに、「もしこれこれなら、こうです」っていう具合に条件つきなのよ。 性質<化け猫である>に対して、<もし人前に出たら、美しい>っていう性質みたいにね。 あら、冗談よ。 ともかく、最も強固な物理主義は還元主義で、それによれば、どんな心的性質も物理的性質に他ならないわ。 その場合、心的性質は物理的性質に還元されるっていうんだけど、その意味は、「ソクラテス」と呼ばれようと、「アテナイ随一の知者」と呼ばれようと、「クサンティッペの夫」と呼ばれようと、オジサンはオジサンという同一人物であるように、心的性質がどんな風に私たちに現れようと、それはすべて何らかの物理的性質と同一だということよ(性質一元論)。 それよりソフトな物理主義は非還元主義と言うわ。 それによれば、心的性質は物理的性質と同一でないという意味で、物理的性質には還元できないの。 すると、これは、少なくとも性質二元論になるわね。 なぜかというと、ソクラテスのオジサン、さっきの可能世界の話を思い出して。 人物や出来事が現実世界と違う性質を持つのが可能世界だったわ。 でもその可能世界でも、ソクラテスはソクラテスであって、ソクラテスがプラトンであるようなことはないのよ。 ソクラテスがプラトンであるなんて、不可能だわ。 つまり、ソクラテスがプラトンであるような可能世界は存在しないってわけ。 たとえ、ソクラテスがプラトンの持つ性質をたくさん持つような可能世界があったとしてもね。 同一でないもの同士は、必然的に同一にあらず。 だから、これを性質のお話にずらして考えると、心的性質と物理的性質が現実世界で同一でないと言うなら、それらはどの可能世界でも同一ではないと言っていることになるの。 つまり二元論ね。 ソクラテスはどの可能世界でもソクラテスであってプラトンではない、ということは、言葉の働きからもそう言えそうね。 ソクラテスがプラトンだったら、というのはよく考えてみると、わけが分からない文法違反の言い方かもしれないわ。 例えば、固定指示詞というのは、「ソクラテス」という固有名詞がどの可能世界でもソクラテス本人を指示するように、同一の指示対象をあらゆる可能世界で指示し続ける、という働きを持つ言葉だといわれているの。 反対に、非固定指示詞は、「アテナイで一番のお金持ち」という確定記述句がその記述を満足させる人物なら誰であれその人物を指示するように、各可能世界ごとに別々の対象を指示することもありうる、という働きを持つ言葉ね。 ソクラテス: ソクラテスはプラトンではありえない・・・うむ。 確かに、ソクラテスの魂はプラトンの魂とも、パイドンの魂とも異なるだろうて。 ところで、おまえの言う異端の教説、物理主義はそもそも物理的な実体一元論なんだから、非還元主義はそのまたひねくれ者ということになるのだろう。 しかし、その非還元主義によれば、ソクラテスの肉体にプラトンの魂が宿り、プラトンの肉体にパイドンの魂が宿っているような可能世界もあるのだろうね。 猫: 可能世界の<遠さ>によるわね。 もっとも、魂は心的性質、肉体は物理的性質という具合に、それぞれ実体としてでなく考えた場合だけど。 もし可能世界を現実世界の<近く>の可能世界、つまり現実世界と自然法則を共有する可能世界に限るなら、そこでは、ソクラテスの肉体にプラトンの魂が宿るような可能世界は存在しないの。 なぜって、どちらのタイプの物理主義者の考えでも、そこではスーパーヴィーニエンス(付随性、併発性)という関係が心的性質と物理的性質の間に成り立っているからよ。 ソクラテス: そのスットコドッコイ、じゃなくてスーパーヴィーニエンスとは何かな。 猫: あら、この可能世界のソクラテスは、かなりおちゃめなソクラテスなの? シャイなあたしには話がしやすいわ、自分で言うのも何だけど。 え?、まあ、なんでもいいけど、スーパーヴィーニエンスっていうのは、一言でいえば、一方が他方に連動する二つの性質の間の依存関係のことで、いまの場合、どの二つの個体や出来事についても、その物理的性質(の集まり)が同一なら<必ず>その心的性質(の集まり)も同一だけど、その心的性質が同一だからといって物理的性質が同一とは限らない(つまり、逆は成り立たない)、っていうことなの。 だから、こスーパーヴィーニエンスが成り立っている可能世界では、そこのソクラテスの肉体(もちろん、脳込みだけど)が現実世界のと同一なままである限り、プラトンのであれパイドンのであれ、現実世界のソクラテスとは別の魂がそれに宿るなんてことはないわね。 こう想像してみて、ソクラテスのオジサン。 現実世界のオジサンの肉体がそっくりそのまま一つの可能世界に出現するの。 そしたら、現実世界のオジサンの魂も、そっくりそのままその世界のソクラテスの肉体に再現されるわ。 なぜって物理主義によれば、すべての状態や出来事は物理的な状態や出来事に依存し、それによって決定されるからよ。 スーパーヴィーニエンスは、だから物理主義にとっては、性質に関するその依存/決定関係を述べたものなのね。 ソクラテス: まったくあべこべの話だな、それは。 肉体などというものは魂にとって忌むべき牢獄であり、死がその縛めを断ち切れば、それこそ魂は喜んで、それ自身がそれ自体においてあるものとして存在するようになる。 そうではないか、ミタマよ。 しかし、猫に真珠、ではなしに真実とは虚しい限りだ。 だが、そのス・・・何とかでは何だって、下からは上が決定されても、その逆、上から下が決定されることにはならんのだ?もちろん、肉体の側を「下」と呼び、魂の側を「上」と呼ぶのに同意してくれるとした上でのことだが。 物事の真の原因はイデアなのだから、本来なら上が下を決定しそうなものだが・・・ 猫: さすがはソクラテスのオジサン、目のつけ所が違うわ。 確かにそこが物理主義のポイントね。 上にあるものどもよりも、下にあるものどもの方が存在論的に優先する、というのが物理主義の基本的立場よ。 だから、さっき言ったように魂は脳の機能であって、脳は調和ある肉のかたまりであって、肉のかたまりは原子分子の集まりであるのだから、結局、こう言ってもいいわ。 原子分子がうまく集まりきれずに魂が存在しないような可能世界はいくらでもあるけど、魂が存在するのに原子分子がうまく集まっていないような可能世界は、少なくとも、現実世界の近くには存在しない、って。 もっとも、現実世界の遙か彼方の、何が存在し何がどうなっているのかを言う言葉さえ見つけられないような、人の想像を絶した異様な可能世界ではどうか知らないけど・・・。 これが、スーパーヴィーニエンス関係は下が上を決定するけど、その逆ではない、ということの一つの意味だわ。 多重実現と再び魂の不死(輪廻転生)の話 ソクラテス: やれやれ。 この猫の考えを改めさせるには、しびれエイの一撃では足りぬかもしれぬ。 では、わがソクラテスの魂が存在するところ、わがソクラテスの肉体も存在しなければならね、とおまえは言うのだな。 猫: でもないわね。 もう一つ、スーパーヴィーニエンスには多重実現という要素があるわ。 そしてこれが、非還元主義のポイントね。 例えば、オジサンの好きなテーマ、<勇気ある行い>とか、<美しい調べ>とかに即していうと、そういう行いとか調べが世界にたった一つしか存在しないということはないわね。 そうだとすると、<勇気ある行い>の場合、それらは互いに異なる行いでもすべて<勇気ある>行いなのだから、その行いのどれかであるというだけで、それは<勇気ある>という性質を持つのだけれど、ただ<勇気ある行い>と言うだけでは、それが互いに異なる行いのどれであるかはまだ決定したことにはならないわね。 だから、同じように肉体が魂を決定しても、魂が肉体を決定することにはならないんだわ。 こういうように、多重実現というのは、下の性質が上の性質を互いに異なる複数の仕方で実現するということなんだけど、スーパーヴィーニエンスっていうのは、一対多の多重実現関係を許すのが普通だから、それからしたって、<上>を決めても<下>が決まらないという関係になるわけ。 そうすると、ソクラテスの魂はどうなると思う? このとき、ソクラテスは立ち上がって、牢獄の中を歩き始めた。 一度目に飲んだ毒の効き目は、もうすっかり消えていた。 話はめちゃめちゃだ、とソクラテスは思った。 しかし、それなりにつじつまは合っている。 だが、それにしても、一番大事な問題を忘れているではないか、と言おうとしたとき、またミタマは話し始めた。 猫: 機能主義では、魂は脳の情報処理の働きに他ならないということは言ったわね。 とすれば、その<働き>、その<機能>を適当な環境の中で果たすなら、それは魂そのものじゃないかしら。 魂の多重実現ね。 その場合、人間の脳にこだわることはないわ。 いいえ、そもそも本物の脳にこだわる必要もないのよ。 いいこと、例えば、水を動力とし、水が流れ落ちれば羽根車が回り、その羽根車の回転が別の車を回し、という具合に複雑に組み合わされた巨大な仕掛けが、ちょうどソクラテスの脳の中の歯車の仕掛けと同じようにその大事な<機能>を果たすなら、その人工の仕掛けは、ソクラテス、あなたの魂そのものなんだわ。 こうも言えるの。 その人工の仕掛けはソクラテスの魂を実現する多くのやり方の一つにすぎない、って。 こうして、あなたの魂は、あのハデスではく、この現実世界においてさえ、ソクラテスの肉体の正確な複製を作るたびに、また、それどころか、その肉体の機能を果たす精妙な機械仕掛けを作るたびに、実現するのよ。 これこそ、物理主義者に許された<魂の不死>に他ならないわ。 そして、その機能以外の、ソクラテスの肉体の素材なんて実はなんでもいいんだから、ソクラテスの魂は人間以外の「脳」にも宿ることができるわね。 これが、物理主義者に許された<輪廻転生>なのよ。 もっとも、その<不死>も<輪廻転生>も、魂を支える「脳」の機能を越えることは出来ないけれど。 ソクラテス: ふ~。 わたしが猫のようにため息をついても仕方がないな。 ミタマよ、しかし、その言論はやはり肝心なことを忘れているようだ。 そんな<不死>や<輪廻転生>では、窮屈で仕方あるまい。 いつどこであろうと、肉体のおかげをこうむらざるをえないというのではな。 いっそ、魂は、かつて神話で多く語られたように、石や木や水や川の流れにも宿ることができねばならないはずだろうよ。 しかし、おまえの従う物理主義では、それができない。 なぜできないというに、おまえの説では、魂に、それが魂であるがゆえんの<本質>が拒まれているからだ。 肉体にはなく魂にはあるその本質こそが、おまえのいう可能世界のすべてのソクラテスを他ならぬソクラテスにしているというのに。 誕生から死までの肉体の激しい転変を考えるなら、ソクラテスの本質を肉体に求めるのはいかにも不合理なことではないか。 なぜというに、赤子から老人にいたる相異なる肉体どもはそれらが異なるから同じ一人のソクラテスなのではなく(そうだとしたらおかしなことだろう)、それらが同じ一人のソクラテスだからこそそれらは相異なる誰かの肉体どもとなるのだから。 とすれば、ソクラテスの存在する時空のすべて、可能世界のすべて、この世とハデスを貫いて、同一のソクラテスの根拠が肉体より先に存在しなければならない。 また、どの<勇気ある行い>も<勇気ある>ものであるためには、ミタマよ、おまえの言論にしたがってさえ、それぞれの行いは、まずその行いがそれであるところのものである上に、さらに、<勇気ある>という性質をどこからか獲得してくるのでなければなるまい。 それは、<勇気>それ自体、つまり<勇気>の本質(イデア)が存在し、それをすべての<勇気ある行い>が分有する、という以外に、どのようにしてでありえようか。 もし<ソクラテスの本質>が存在するなら、それはすべてのソクラテスの「肉体」どもの根拠なのだから、「肉体」どもとは切り離されて別に存在していなければならない。 ソクラテスは、数時間前の友人たちとの会話を思い出しながら、少し興奮してきた。 再び、寝台に腰掛け、ミタマをじっと見るソクラテス。 心的因果と物理主義 ソクラテス: おお、ミタマよ、おまえの言論が忘れているというのは、物事の真の原因は、その物事の本質、根拠以外のどこにもないという簡単なこと、これだ。 さっき、わたしがシミアスたちに語って聞かせたように、ソクラテスがこの牢獄でこうして死を待っていることの原因は、ソクラテスの知性である。 というのも、ソクラテスは、その行為のすべてを知性によってなしているからだ。 ところが、かのアナクサゴラスの説と同様に、物理主義によれば、わたしがここでこうして脚を曲げて座っていることの原因は、「骨がそれの結合部において自由な動きをなすときに、腱が伸縮して、わたしがいま四肢を曲げるようなことを可能にする」(『パイドン』98D)ことなのだ。 しかし、真実は、このわたしの行為の原因は、「アテナイの人たちが、わたしに有罪の判決を下す方が<よい>と思ったこと、そしてそれ故に、わたしとしても、ここに座っている方が<よい>と判断したこと、そして彼らの命ずる刑罰なら何であれ、この地に留ってそれを受けることの方が<正しい>と判断したこと」(同、98E)なのである。 骨とか腱とか、そういうバカげたものを原因と称することは、出来事の必要条件の一つにすぎないものを、真の原因そのものと言いふらすことなのだ。 しかるに、ミタマよ、おまえの物理主義にしたがえば、存在論的に優先するのは魂より肉体の方なのだから、すべての行為の原因は行為者がどう考え、判断したかではなく、骨や腱がどう動くのかということにならざるをえないだろう。 つまるところ、物理主義とやらでは、行為の真の説明さえもできないのだ。 猫: ふふふ、そうでもないけど、これはまさに、物理主義にとっての心的因果の問題ね。 確かに難問だけど、物理主義がこれをクリアーできないことはないと思うわ。 この問題には、いくつかの前提があるわね。 一つは、ソクラテスのオジサン、あなたがいま言ってくれた「心身因果」という関係。 もう一つは「物理的領域の因果的閉包性(物理的閉包性)」、それに「過剰決定の回避」だわ。 そして一般に心的因果の問題というのは、この3つの前提をすべて満足させながら、心的性質に因果的効力を与えること、つまりオジサンの言う<どう判断したか>が行為の真の原因となるように議論を組み立てること、もっと言えば、エピフェノメナリズムをうまく遠ざけることね。 ソクラテス: ふうむ、では、それらを猫にでも分かるように、じゃなくて、このソクラテスにも分かるように説明できるかな? 猫: 難しいけどやってみるわ。 まず、心身因果というのは、魂から肉体への因果関係と、その逆の肉体から魂への因果関係のことで、これは、猫も人間もあんまり否定したくないわね。 なぜって、あたしもカツオ節ご飯の方がお肉よりダイエットにいいと考える<から>カツオ節ご飯を食べるのだし、カツオ節ご飯の姿が網膜に移る<から>そこにカツオ節ご飯があると考えるわけね。 この二つの<から>は、どちらも原因と結果を結んでいるわ。 次に、因果的閉包性というのは、どんな物理的な出来事にもそれを引き起こすのに十分な物理的出来事(原因)が存在する、という主張ね。 これは二元論者であるオジサンが認めるかどうか知らないけど、物理主義にとっては譲れない一線だわ。 つまり、オジサンが仮にクリトンの勧めにしたがってメガラかボイティアに逃げていたとしても、その脱獄をすべて説明する<骨と腱の話>があるってことね。 もちろん、脱獄の方がいいって思ったオジサンの思いなしと並んでね。 そして最後の過剰決定の回避というのは、ある結果に対してそれを引き起こすの十分な別々の原因が二つ以上ある(過剰決定)なんてことは滅多にあるべきじゃない、という一種の要請みたいなものね。 それに、過剰決定は、スーパーヴィーニエンスの下では因果的排除の問題(排除問題)につながるの。 例えば、あるとき<偶然に>過剰決定を起こした二つの十分な原因の一つが物理的出来事でない(心的原因だ)とすると、二回目にその原因が<単独で>出現した場合、その結果の出来事には一回目の物理的原因はもう連れそっていないんだから、いいこと、因果的閉包性が破られたことになるわね。 そりゃヤバイというので物理主義者は例外なく、そういう過剰決定があるなんて認めないわ。 そんな心的原因は存在しないか、あるいは存在しても、もう一つの物理的原因と性質間のスーパーヴィーニエンス関係で<必然的に>結びつけられていたはずだ、と主張するのよ。 そうなれば、どのみち、結果の物理的出来事には<必ず>物理的原因があることになるから、物理的閉包性は守られるわね。 でもスーパーヴィーニエンスの場合には、今度は排除問題が待ってるの。 というのは、二つの種類の十分な原因が<必ず>そろってお出ましになるのなら、その一方は実は余計な飾り物だってことでしょ。 だったら、その余計な方の原因(心的原因)は原因の地位から追放されても当たり前、というのが排除問題ね。。 こういうのを全部合わせるとどうなるか、オジサンなら分かるわよね? ソクラテス: もちろんだが、ミタマよ、おまえの口から聞いてみよう。 猫: その前に、性質の因果的効力というのは、ある原因がある結果を引き起こすとき、その原因が<その性質のゆえに>その結果を引き起こす際のその性質のことね、ややこしい言い方だけど。 例えば、ある大きな歌声は、その<声の大きさのゆえに>庭のツバメを驚かせたのであって、その<歌詞のもつ意味のゆえに>ではないわね。 そして、この場合のエピフェノメナリズムとは、心的性質にその因果的効力を認めないことだわ。 さてさて、それでどうなるかと言うと、さっきの3つの前提をすべて満足させて、心的性質に因果的力を確保するのは確かに至難の業。 なぜって、因果的閉包性を受け入れたら、すべての行為にはその十分な物理的原因(骨と腱による原因)が存在するのだから、行為の因果的生成に対して過剰決定と排除問題を避けるためには、その物理的原因以外の原因はどれも本物の原因ではない、と言わざるをえないわね。 物理主義は、物理的なものに存在論的な優位性を与えるから、物理的なものが因果的な仕事のすべてを行ってしまった後では、心的なものがなすべき因果的仕事は何も残されていない、というわけ。 だとすると、心身因果を受け入れて、魂としての魂の状態(判断や思いなし)が行為の原因だと主張しても、それは、心的性質を真の原因ではなく、まがいの原因だと言うことに他ならないの。 そしてそれこそは、心的性質に因果的力を認めないこと、エピフェノメナリズムだわね。 あら、これじゃ、オジサンの言うとおり、物理主義じゃ行為の真の説明はできないってことになっちゃいそうね。 ソクラテス: ふうむ(得意げに)、世に言うソクラテスの問答ってやつの見本のようだ。 猫: まだ早いわよ。 物理主義には、まだいくつかの選択肢があるわ。 例えば、心的性質と物理的性質の文字通りの同一性、つまり還元主義を取ればどうかしらね。 これは、心的性質と物理的性質を同一とすることによって、物理的性質の因果的効力を心的性質の因果的効力そのものとする戦略ね。 これにはこれでいくつかのやり方と、厄介な問題がありそうだけど。 それから、非還元主義をとるなら、いくつかの戦略の中でも、いっそ心的性質の因果的効力を諦めちゃうという極端な戦略もあるわ。 これは、一見して苦しい敗北のように見えるかもしれないけれど、因果的効力という概念を含めた、ちょっと大がかりなエピフェノメナリズム再考という話ね。 それにもっと、根本的な戦略の転換として、形而上学としての物理主義の地位(因果関係が因果説明に優先する)を見直すという戦略だってあるわ。 この立場が、正確に存在論としての物理主義の枠内にあるかどうかは問題だけど、その範囲にとどまりながら、心的因果の説明実践の方を形而上学的存在論より優先させるということが可能かもしれないわね。 あるいはそれにね・・・ このとき、何人かの人々の足音が牢獄に近づいてきた。 ソクラテスの遺体を運ぼうとしてやってきた役人たちである。 しかし、もはや夜は白々と明け始め、一番鶏の声が遠くに聞こえる。 二度目の毒ニンジンを飲むのは、また今夜のことになるだろう。 すると、このソクラテスは、これから、二冊目の『パイドン』となる題材を新たに弟子たちに話すのだろうか。 猫: 時間ね。 もう消えるわ。 性質が存在するって、考えてみれば不思議なこと。 もし性質がその担い手から離れてそれだけで存在できたら、多くの問題が容易く解決できたでしょうに。 なぜって、そのときは性質相互の関係を純粋な形で探求しえたでしょうから。 でも、性質は、<笑い>だけのあたしのように、それだけで存在することはできないんだわ。 牢獄内が明るくなるにつれて、ミタマの姿は徐々に消え始めた。 やがて完全に消えてからしばらくの間、ミタマの<笑い>だけが牢獄内の空間に残った。 あのチェシャー猫のように・・・・ 参考文献: 『パイドン』(プラトン全集1)、松永雄二訳、岩波書店、1975。 なお、ここに登場するソクラテスの言動に関しては、金沢大学文学部の同僚、三浦要氏(古代哲学)にも監視の目を光らせて頂いた。 貴重なコメントを寄せて頂いた和洋女子大学の三浦俊彦氏、および本誌本号の二人の執筆者、柏端達也氏と太田雅子氏とともに、ここに記して感謝の意としたい。 もちろんのこと、このソクラテスがへんてこりんなソクラテスであったとしても、そのすべての責任は私にある。

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物理主義でクオリアは解決できるか?その2

物理主義

カルナップ( 1891ー1954 などによって、始められた。 彼らの目指したのは、「科学的世界把握」の哲学的な基礎付けである。 科学の基礎付け、および専門分化した諸科学の統一が課題になる。 (1)論理実証主義による物理主義 物理主義 Physikalismus を哲学的に基礎づけようとしたのは、論理実証主義である。 カルナップは、科学を次のように区別する。 物ー言語 = 前科学的言語と物理言語との共通の部分 物理言語 = 論理ー数学的用語と物理学的用語 生物学的言語 = 論理ー数学的用語と物理学的用語と生物学的用語 41 カルナップは、<物ー言語による科学の言語の統一>を意図した。 物ー言語 = 前科学的言語と物理言語との共通の部分 「観察可能な物ー述語」:重い、軽い、赤、青、大きい、小さい、厚い、薄い、など 「傾性述語」:一定の条件のもとでの一定の行動に対する事物の傾性を表現するよう な用語。 たとえば、弾性の、溶解性の、柔軟な、透明な、もろい、可塑的な、など。 ・傾性述語は、観察可能な物ー述語に還元可能である。 46 ・「さらに、定義と(条件的な)還元を反復適用することによって、物ー言語の他 の全ての用語を導入することが出来る」46 つまり、物-言語は、最終的には全て「観察可能な物-述語」に還元されるということである。 還元とは、次のような定義による言い換えである。 還元言明は、 単純な(すなわち明示的な)定義 「・・・=・・・」 条件的定義 「もし・・・ならば:・・・=・・・」 のどちらかである。 44 つぎに、物理言語、生物学言語、心理学的言語もそれぞれ物-言語に還元可能である。 ・ 「物理言語の全ての用語が、物ー言語の用語、したがって最終的には観察可能な述語に還元可能だということである。 」46 ・生物学的言語も、観察可能な物ー述語に還元可能である。 「なぜならば、具体的な場合における当の用語の確定は、最終的には具体的な事物の観察、すなわち 物ー言語で定式化された観察言明にもとづいていなければならないからである。 」 47 ・「心理学的言語の任意の用語に対して行動論的な確定方法が存在する。 したがって、このような用語は、すべて物ー言語の用語に還元可能である。 」51 ・結論 「観察可能な物ー述語のクラスは、日常言語の中の認識にかかわる部分を含めて、科学の言語の全体に対する十分な還元基だということである。 」52 ・カルナップは、全ての科学法則を物理法則に還元できるとは主張していないが、それを科学の目的だと考えている。 「いまのところ法則の統一というものはない。 科学全体の諸法則の一つの同質的な体系を構成することが将来の科学の発展に対する一つの目的である。 この目的が到達不可能だということは示せない。 」53 ・還元主義の問題点 論理実証主義は、全ての科学的な命題(全ての有意味な命題)を論理学や数学などの分析的に真である命題と観察可能な命題に還元しようとする。 (真なる命題の全体集合を、その部分集合である小数の真なる命題から導出・演繹するという点において、還元主義と公理体系は同じである。 ) しかし、論理実証主義のプログラムは、破綻した。 その理由は、還元が不可能であったということである。 (1)物理法則や生物法則などの全称命題の、物ー言語への還元が不可能であった。 (2)傾性語の観察可能な物ー述語への還元が不可能であった。 (グッドマン『事実・虚構・予言』勁草書房) それを次により詳しくみよう。 2、論理実証主義の検証理論 カルナップは言明を3つに分ける。 1、論理的恒真式と恒偽式 論理学と数学 2、事実式の中で経験的に検証可能なもの 科学的言明 3、事実式の中で経験的に検証不可能なもの 形而上学的言明 (3は、無意味であり、従って真でも偽でもない。 ) *「完全検証可能性」の定義 「ある命題が検証可能であるとは、その命題が観察命題の集合から論理的に演繹可能であるということである」 *「完全検証可能性」という規準の欠点 欠点1:普遍的言明(例えば「すべてのスワンは白い」)は検証不可能であるから、ほとんどの科学理論は無意味なものになってしまう。 欠点2:「黒いスワンが存在する」は検証可能であるので、有意味である。 しかし、その否定「すべてのスワンは黒くない」は検証不可能であるので、無意味である。 つまり、有意味な文の否定が、無意味であることになる。 これは、ある文が真または偽であるならば、その否定は偽または真であると言う、基本的な論理的原理に矛盾する。 *「部分検証可能性」の定義(エイヤーによる) 「ある命題が検証可能であるとは、その命題に他のいくつかの前提を結び付けると、それらの前提のみからは演繹されないようないくつかの経験命題が演繹される、ということである。 」 *「部分検証可能性」という規準の欠点 欠点1:バーリンの批判 「この論理学の問題は明るい緑色である。 私はあらゆる種類の緑色が嫌いである。 それゆえに、私はこの問題が嫌いである。 私はここで、妥当な三段論法をおこなっている。 この大前提は弱い意味での検証可能性の定義にかなっており、また論理学と文法の規則にのっとっている。 しかし、この推論はあきらかに無意味である」(イアン・ハッキング『言語はなぜ問題になるのか』けい草書房、160) この大前提はあきらかに無意味であるが、エイヤーの規準では、これが検証可能で有意味であることになる。 しかし、エイヤー自身もまた、『言語、真理、論理』の第二版で、この基準はどんな文に対しても経験的意味を与えることになる、と自己批判している。 例えば、sが「絶対者は完全である」と言う文であるとすれば、補助仮説として、「絶対者が完全であるならば、この林檎は赤い」と言う文を選べば、「このリンゴは赤い」という観察文が演繹され得るようにするのに十分である。 (参照、「意味の経験論的基準における問題と変遷」 Carl G. Hempel cf. 6 ) *「間接的に検証可能」の定義(エイヤーの二度目の試み) 「私は次のように言うことを提唱する。 一つの言明は、それがそれ自身一つの観察言明であるか、あるいはそれと一つまたは複数の観察言明とから、後者の観察言明のみによっては演繹されないような観察言明が含意されるときには、直接的に検証可能であると言われる。 そして、一つの言明は、次のような二つの条件をみたすときには、間接的に検証可能であると言われる。 すなわち、第一に、その言明といくつかの前提によって、それらの前提のみによって演繹されないような、一つまたは複数の直接的に検証可能な言明を含意するということ。 第二に、それらの前提には、分析的でもなく、直接的に検証可能でもなく、また他とは独立に間接的に検証可能であることが確立されるのでもないような言明は、なに一つ含まれていないということ。 私は以上の規定によって、いまや分析的ではない、文字どおり有意味な言明がみたすべき条件としての検証原理を、次のように再定式化することができる。 すなわち、そのような言明は、上に述べた意味で、直接的あるいは間接に検証可能でなければならない。 」 イアン・ハッキング,161 *「間接的な検証可能性」という基準の欠陥 ・アロンゾ・チャーチの批判 「例えばNをハイデガーの「ナンセンス文」としてみよう。 論理的に独立な三つの観察言明を自由に選びO1、O2、O3としよう。 そして、つぎのような複合文をつくり、これをCと呼ぼう。 (〜O1・O2)V(O3・〜N) Cは直接的に検証可能である。 なぜなら、CはO1と結び付けられるとき、O3を含意するからである。 ところで、CはNと結び付けられるならば、O2を含意する。 それゆえ、NがO2をそれ自身で含意しないならば、Nはエイヤーの定義に従って間接的に検証可能ということになる。 」 (〜O1・O2)V(O3・〜N) O1 O3 N (〜O1・O2)V(O3・〜N) O2 (なお、飯田隆によれば、現在も検証基準の定式化が試みられている。 113)では、以下の論文が指摘されている。 Wright, "Scientific realism, obsevation nad the verification principle" in G. Wright eds. 247-274. ) 補足1:ポパーの反証主義 ポパー 1902ー は、学問的言明を3つに分ける、つまり学問を3つに分ける。 a、証明可能な言明。 論理的数学的理論 b、証明不可能、反証可能な言明。 経験的科学的理論 c、証明不可能、反証不可能な言明。 哲学的或は形而上学的理論 (ポッパーはcも有意味であり、議論可能であるという。 反証可能性は、意味の基 準ではなく、単に科学と非科学を区別する基準である。 ) (1)「反証可能性」の定義 理論はただ観察命題と矛盾し得る形に定式化出来る場合にのみ科学的とされる。 もし理論が、受容されている観察命題と矛盾したら、棄却されねばならない。 理論は新しい事実、即ち、以前の知識では予期されていなかった事実を予言しなければならない。 反証不可能な理論は何等新しい経験的予言を行わない。 (2)「反証不可能な言明」とはどのようなものか。 「反駁不可能」には (a)論理的に反駁不可能(論理的に矛盾していない言明) (b)経験的に反駁不可能(如何なる可能な経験的言明とも両立しうる言明)」の2義あり、「反証不可能な言明」とは(b)のことである。 我々は(b)をさらに二つに分けることが出来るだろう。 イ、厳密な或は純粋な存在言明、 「ガンに対する完全な特効薬が存在する。 」 「あらゆる病気を直すラテン語の文句が存在する」 「永久機関が存在する」 「透明人間が存在する」 「黒いスワンが存在する」 これらは、反証不可能である。 しかし、これらの否定の言明は反証可能である。 ところで、反証可能な命題が有意味であるならば、その否定も有意味であると考えるの適当だろう。 それゆえに、ポパーは、反証不可能な命題もを有意味であると考えるのだろう。 ロ、形而上学的な言明 決定論「未来は現在によって完全に決定されている」 観念論「世界は私の夢である」 有神論「神が存在する」 これらの場合には、その否定の言明(非決定論、実在論、無神論)も反証不可能である。 (3)反証理論の欠点 欠点:実際には、理論だけを前提にして、一定の予測が行われるのではなく、一定の個別的な対象について言明、また一定の状況、条件についての言明をも前提として、一定の予測の言明が導出されるのであるから、その予測の言明が、観察言明と矛盾したとしても、論理的には前提の内の少なくともどれか一つが偽である、ということが言えるだけであって、どの前提が偽であるかを特定することはできない。 法則のような理論命題を、観察命題によって、反証することは出来ない。 多くの場合、少ない負担で訂正できる命題を修正しようとすることになる。 実際に、科学史を調べると科学者は、理論を反証する観察が行われた場合に、理論を撤回せず、アドホックな説明によって、理論を維持しようとする傾向があることが解る。 補足1:新科学哲学、クーンのパラダイム論 一九六〇年前後に相次いで現れたトーマス・クーン、N・R・ハンソン、S・トゥールミン、P・ファイヤーアーベントらの仕事、いわゆる「新科学哲学」の登場によっ現代の科学観は大きく変化することになった。 ここでは、このような新科学哲学の中でもっとも影響力の大きかったクーンの『科学革命の構造』をもとに新しい科学観を紹介したい。 1ー12 科学研究の三時期 クーンは科学研究を三つの時期に分けた。 それは、 1、パラダイム成立以前の研究 2、一定のパラダイムに基づいた研究=通常科学 3、パラダイムの危機と変革の時期の研究 である。 クーンによれば、パラダイムが出来上がり、それに基づいて研究が行われるということが、その科学の成熟の証しである。 パラダイム成立以前の科学研究 パラダイム成立以前の研究分野は、その見解が本質的に異なっている学派が乱立し互いに対立し合っている状態となる。 例えば、古代から一七世紀の末までは、光の本性について一般に受け入れられた唯一の見解というものは存在しなかった。 そのかわり、エピキュロス派、アリストテレス派、プラトン派などのいろいろな理論が相対立していた。 ニュートンが、初めて、物理光学においてほぼ完全に受け入れられるパラダイムを引き出したのである。 他の分野では、例えば、運動論の最初のパラダイムはアリストテレスによって作られ、静力学の最初のパラダイムはアルキメデスによって作られ、熱学の最初のパラダイムはブラックによって作られ、化学の最初のパラダイムはボイルやブールハーフェによって作られ、地史学の最初のパラダイムはハットンによって作られ、電気学のパラダイムはフランクリンとその後継者によって初めて作られ、遺伝学では一般に受け入れられる最初のパラダイムが出来たばかりである。 クーンの「パラダイム」概念は、後には社会科学でも用いられるようになるのだが、クーン自身は、「社会科学の分野ではパラダイムというものが、はたしてできているのかどうかさえまだ問題である」 1ー18 と考えている。 パズル解きとしての通常科学 パラダイムを基礎として行われる科学研究を、クーンは「通常科学 normal science 」(規範科学と訳されることもある)と呼ぶ。 通常科学とは「特定の科学者集団が一定期間、一定の過去の科学的業績(パラダイム)を受け入れ、それを基礎として進行させる研究」 1ー12 である。 クーンによれば、通常科学の研究はパズル解きである。 パズルの特性の一つは、解答があるということである。 パラダイムは、科学者集団に、問題を選ぶ基準を与え、その問題に解答があることを保証する。 通常科学が非常に早く進歩するように見える理由の一つは、道を踏み外さずにこのような問題に注意を集中できるからである。 パラダイムの危機 パラダイムは、科学者に小さい分野の極めて専門的な問題に注意を集中させることによって、自然のある部分を、かつて考えられなかったほど詳細に深く探求することを可能にする。 それ故に、そのパラダイムがより正確で、より徹底したものであればあるほど、変則性をより敏感に示すことになる。 このような変則性は、パラダイムによって与えられた基盤に対してのみあらわれてくるのである。 しかし、このような変則性や反証例に直面しても、科学者はすぐにそのパラダイムを放棄するわけではない。 それらはそのパラダイムで解けるパズルであるのかもしれないからである。 そのパラダイムで解けるパズルとそのパラダイムに矛盾する反証例との間にハッキリした区別があるわけではない。 むしろこうした危機が「いろいろなパラダイムの変種を誘発することを通して、通常科学のパズルのルールを緩め、最後には新しいパラダイム出現の道を拓くのである」 1ー90 パラダイム変革としての科学革命 クーンは、「科学革命」を一つのパラダイムから他のパラダイムへの転換としてとらえ、このような革命によって段階的に移行していくことが、成熟した科学において繰り返されるパターンである、と主張した。 科学革命とは、「古いパラダイムがそれと両立しない新しいものによって、完全に、或は部分的に置き換えられる、という現象」 1ー104 である。 クーンによれば科学革命が起こる理由は次のようなものである。 一、新しいパラダイムで、旧いパラダイムを危機に導いた問題を解くことが出来るということ。 二、旧いパラダイムでは思いもよらなかった現象の予測が、新しいパラダイムのもとで出来るということ。 三、新しいパラダイムが、旧いものよりも「きれいで」「要領よく」「簡潔」であること。 ただし、おそらくこの様な議論は、科学においては数学に於けるほど効果をもたない。 四、どのパラダイムが、今まで完全には解けなかった問題に、将来解こうという研究方向を与えるかということ。 なぜなら、科学を進めるいろんな道のうちのどれを採るかの決定が要請されるとき、その決定は過去の栄光よりも将来の約束によらねばならないからである。 パラダイムの共約不可能性 クーンのパラダイム論の衝撃は、「パラダイムの共約不可能性」の主張にあった。 パラダイムは、通常科学研究において、解くべき問題とその解答と解答の正当性を決める規準を与えている。 したがって、パラダイムが変化すると、解くべき問題とその解答と解答の正当性を決める規準もまた変化することになる。 全ての問題を解いてしまったパラダイムは存在しないし、また二つのパラダイムの解けない問題が全く同じになることもないので、どのパラダイムを選択すべきかという問題に答えるには、どの問題を解くのがより有意義かという問題に答えなければならない。 価値判断を含むこの問題と、解答の正当性の規準を選択する問題は、全く通常科学の外側にある規準によってのみ答えられる問題である。 なぜなら、特定のパラダイムに基づいてこの問題に答えて、そのパラダイムの選択を正当化することは、循環論証になるからである。 このようなパラダイムの共約不可能性を認めると、我々は科学革命の前のパラダイムよりも後のパラダイムの方が優れていると言えなくなる。 つまり科学が進歩しているとは言えないことになる。 観察の理論負荷性 もうひとつ重要なことは、「パラダイム変革が起こる時は、世界自体もそれと共に変革を受ける」(一二五頁)ということである。 ゲシュタルト心理学の反転図形のように、「革命前に科学者の世界で鴨であったものが、後には兎となる。 はじめ箱の外側を上から見た人が、後にはその内側を下から見るのである。 」(同頁)これは、N・R・ハンソンの用語を用いれば、「観察の理論負荷性」ということであり、我々は「ものを見ている」のではなく「ことを見ている」ということである。 カルナップの検証理論もポパーの反証理論も、理論に対して中立的な観察言語に頼っているが、そのような中立的観察言語を見いだすことは不可能なのである。 したがって、一定のパラダイムに拘束された観察言語を、パラダイムの選択規準にすることは出来ない。 理論を反駁するのは、事実ではなくて他の理論なのである。 これは、自然科学の実証性に対する根本的な批判になる。 参考文献 1、クーン「科学革命の構造」みすず書房 2、ノーウッド・R・ハンソン『知覚と発見』上、下巻、紀伊国屋書店 3、I. ラカトシュ『方法の擁護』新曜社 4、P.K.ファイヤーアーベント『方法への挑戦』新曜社 5、中山茂編著『パラダイム再考』ミネルヴァ書房 6、A.F.チャルマーズ『科学論の展開』恒星社厚生閣 7、ブラウン『科学論序説』培風館.

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