至高の領域に近い。 TANNOY(タンノイ) 〜守り続ける美学、至高の響き〜(後編)

至高の決断のひと 横田滋さん その1 (推敲しました)(もう一度、推敲しました)|青山繁晴の道すがらエッセイ/On the Road

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領域(りょういき)• 権限・能力などの及ぶ範囲。 勢力下にある区域。 - 国家の統治する区域。 領土、領海、領空などの総称。 - 解析学で用いられる用語。 の「領域」 - 対応する英語はdomain。 特にで用いる、プログラムが扱うデータ(プログラムを含む)を抽象化したもの。 - におけるの総称。 (他の教育領域を主とする学校で、を有する・を対象とする場合を含む)においては、と統合した「」という分野も存在する。 このページは です。 一つの語句が複数の意味・職能を有する場合の水先案内のために、異なる用法を一覧にしてあります。 お探しの用語に一番近い記事を選んで下さい。 を見つけたら、リンクを適切な項目に張り替えて下さい。

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「至高」の意味と使い方、「究極・最高・至上・至善」との違い

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みなさん、いかがお過ごしですか。 今朝の空のように、晴れ晴れとした気持ちも湧いてこられていることを、こゝろの底から願います。 ぼくは選挙活動をせず、地元を作らず、後援会も後援会長もないので、ゆうべは閣僚らと交渉を行い、今日はこれから、午前中に出発して義父と義母のいらっしゃる墓苑に墓参りに行ってきます。 天気の爽やかなあいだにお目にかかり、最近の日々のご報告をしようと思います。 実の父は、兵庫県内の青山家の墓に家長を務めたひとりとして眠り、母は、日本キリスト改革派教会のクリスチャンですからキリスト教の決まりに従い、教会の共同のお墓にいます。 同じく兵庫県内の海の見える地です。 なかなか行けずに申し訳ないことです。 ただ毎朝、自宅でお水を捧げて「祖国と主権者のために奮闘します。 ありがとうございます。 お父さん、お母さん、ご先祖さま、どうぞお護りください」と申しています。 日本の神さまと、仁徳天皇の御子でいらした反正天皇をはじめ歴代の天皇陛下にお水に米、塩、ときにお神酒と祈りを捧げ、そして硫黄島の英霊のみなさまに一杯の氷水と祈り、白梅の少女たち、拉致被害者の亡くなられたご家族にお水と祈りを捧げるときは、「お護りください」はみずからの利にも繋がることですから申しあげず、深き感謝と誓いだけを申しあげています。 これらすべての祈りとともに、いくつもの震災そして武漢熱を含めたくさんの厄災で亡くなられたかたがたへの鎮魂、いま厄災で苦しんでおられるすべてのかたがたの恢復への願い、そして拉致被害者をひとり残らず取り返す誓いを被害者とご家族へ申しあげ、最後におのれが脱私即的、わたくしを脱してほんらいの目的に即 つ く、その生き方を貫くことをあらためて自身に誓って、朝の祈りを終えます。 感染対策のために、今回はご家族、拉致被害者と特定失踪者それぞれの家族のみなさまをお呼びしていないということでした。 ご家族は高齢のかたもいらっしゃるので、万やむを得ないことだと思います。 たいへんに寂しく、申し訳なく感じましたが、救う会会長の西岡力先生が参加してくださり、ミニ講演もなさってくださいました。 これは、ぼくがあえて自由民主党の議員になった以上は、欠かせない義務のひとつと考えて、おこなっていました。 虎ノ門ニュースのレギュラーから去った今、それができなくて、その義務が果たせていません。 新たな動画を始めるのは、そのためがいちばん、大きいのです。 新動画は、さまざまに考え協議した結果、チャンネル桜の協力のもとで7月から開始する予定が決まりました。 チャンネル桜の番組の一つになるのではありません。 あくまでぼくの個人動画です。 そのうえで撮影やアップの実務をチャンネル桜が全面協力してくださるということです。 チャンネル桜はスポンサーを付けて、それがチャンネル桜を支えることにも繋がります。 ぼくは当然、スポンサー収入は1円も受け取りません。 このブログも含めて、ぼく自身はスポンサーを一切、付けません この新動画にて、部会などの報告を、以前と遜色なく行いますからお待ちください。 これは、あらためて詳しく報告します。 独立講演会も再開が決まりました。 これもまた、詳細にアップします。 西岡さんがいちばん印象深く強調されたのは、あの温厚な横田滋さんが、いざという時にどれほど強靱な決断のひとであったか、その決断があってこそ、拉致被害者を取り戻す運動がようやくにして本格化した、その事実でした。 その2へ続きます。 もう墓参へ出発せねばなりません。 あとでまた、お目にかかります•

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「至高」の意味と使い方、「究極・最高・至上・至善」との違い

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1940年代後半から1950年代前半にかけて、 ファウンテンは以下の領域におけるプロジェクト実行に心が駆り立てられる。 思想を明確に表現し、数々のユニークな製品をこの世に生み出した「 タンノイ」。 この記事により、伝統を守りつつ進化を遂げる タンノイのフィロソフィが、皆さんと再認識できれば幸せだ。 目次 1. 戦争とタンノイ 1-1. 第二次世界大戦とタンノイ 1939年、ドイツ軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発すると、イギリスは自国の経済活動のすべてをこの戦争に集中させた。 タンノイ社もその例に埋もれず、生産設備の全ては国防計画に振り向けられた。 飛行場の警報装置、戦車や潜水艦内での緊急通報装置、砲兵隊の指揮伝達通信機、軍需工場内で使われる通報装置、等々の生産である。 しかし、1945年に終戦を迎えると、 タンノイ社はすぐさま再生装置や通信機器の製造を再開し、新時代へ向けての研究開発を始める。 一方で、この頃からタンノイ社の製品品目の一つに、会議場内でのコミュニケーション機器や通訳装置が加えられる。 実際、戦後の国際協力関係の進展に伴い、タンノイは世界の代表的な会議設備の多くを手がけている。 国際連合の臨時本部となったパリの会議場、ジュネーブの国際連盟跡の会議場、ニューヨークの国連本部ビルなどはその納入先の一例だ。 そして、それ以後、タンノイは国際会議での通訳装置、音響装置の供給において世界でも有数のメーカーとして活躍し、重要な国際会議場にタンノイの装置を取り付けていない国はない、とまで言われるほどになる。 1-2. タンノイの代名詞「デュアル・コンセントリック」誕生 タンノイは第二次世界大戦を経て、軍のPAシステムや通信機器の優秀性によりその名をより高めたが、1947年、さらにその名は広く知れ渡る。 ロナルド・H・ラッカムらと、今なお基本構造が変わらないあのユニット「 デュアル・コンセントリック(通称「モニター・ブラック」)」の開発に成功するのである。 これは米国アルテック社が開発した同軸2ウェイ604にヒントを得て、自社製マイクロフォン開発の校正用音源として試作されたのが始まりと言われている。 高域はコンプレッションドライバーによるホーン型、低域はコーン型ダイレクトラジエーターとして、この二つを同軸上に一体構造とさせながら、シングル・マグネットに二つのギャップを刻み込んだユニークな設計だった。 こうしてタンノイの代名詞「 デュアル・コンセントリック」は誕生し、その構造は今日まで脈々と受け継がれているのである。 1-3. デッカとの出会い デュアル・コンセントリックが発表された1947年の9月、ロンドンにて第二次世界大戦後初となる オーディオショー「 オリンピア・ロンドン展」が開催された。 ここでデュアル・コンセントリックは非常に注目を浴びることになるのだが、偶然にも、タンノイのブースの前にはデッカのブースがあった。 そして、これがタンノイの大きな転換期へとつながる。 デッカは、既にSPレコードで広域の限界再生周波数を従来の8kHzから14kHzにまで伸張することに成功していた。 しかし、肝心の14kHzまでの再生能力を持つスピーカーを手にすることができていなかった。 そこでタンノイのデュアル・コンセントリックに白羽の矢が立っのだが、このデュアル・コンセントリックはデッカの一般市販用の製品「 デコラ」への採用が決まると、次いでデッカの録音スタジオモニターとしても採用されていく。 こうして家庭用・モニター業務用という二つの異なった分野でデュアル・コンセントリックは活躍を始めるのだが、このデッカとの出会いは、ユニットの将来を方向付け、タンノイに幅広い活動を約束するものとなった。 第二次黄金時代 2-1. オートグラフ誕生の背景 LPレコード発売の1948年前後を契機に、世界中のオーディオメーカー各社から新しい豪華な家庭用スピーカーシステムの発表が相次ぐ。 また、FM放送が開始された1950年代に入ると、家庭でのハイクオリティな音楽再生熱に拍車がかかった。 そうした中、タンノイもモニター・ブラック発表後間もなく、「 デュアル・コンセントリック・ラウドスピーカーシステム」と称するバスレフ式のコーナー型システムを作る。 が、これは評価が得られなかった。 このため、すでに人気になりつつあったヴァイタボックスの「 CN191」やエレクトロボイスの「 ザ・パトリシアン」などに対抗するものとして企画されたのが、オーディオ史上屈指の名器「オートグラフ(Autograph)」である。 創業者ガイ・ルパート・ファウンテン自らがオートグラフ(自筆サイン)を刻み、その名をモデル名としたことがその名の由来だ。 発表されたのは1953年、米国ニューヨークの オーディオ・フェアでのことだった。 2-2. 第二次黄金時代 1953年、タンノイはオートグラフを発表すると、それからは後に名器と呼ばれる新作を次々と発表する。 1954年には「 ヨーク」「 ランズダウン」、1955年には創業者のイニシャルをとった「GRF」である。 この頃から、タンノイは本格的に北米大陸のマーケットに進出する。 1953年には、 ハイファイスピーカーの販売と PAシステムのレンタル及び補修を業務活動とする「タンノイ・カナダ」を設立。 1954年には、ハイファイスピーカーの販売と米国市場にあったデザインシステム製造を狙い、「タンノイ・アメリカ」を設立。 特にタンノイ・アメリカでは、イギリス本国の少品種の製品構成とは大きく異なり、当時のアメリカニーズに沿った様々なバリエーションモデルが豊富にラインナップされていた。 新生タンノイ 3-1. 運命の1974年 オートグラフを筆頭とした商業的成功に支えられ、名門タンノイは順調に経営を推移させていく。 しかし、1974年、自体は突如急変する。 まずは、 コーン・アッセンブリー工場の火災である。 これにより、自社にて ユニットエンクロージャーの生産が不可能となる。 そして、ほぼ時を同じくして、ファウンテンが引退を決意する。 1926年に会社を創立して以来、48年間に渡りタンノイ社を牽引してきたファウンテンも、このときすでに74歳。 さらに二回の心臓発作を起こしており、満身創痍の状態だった。 こうした経緯を経て、ファウンテンはタンノイ社の将来の発展を考慮に入れ、最終的な決断を下す。 それは、当時すでに世界的な規模で活躍していた音響多国籍企業「 ハーマン・インターナショナル社」へのタンノイ社売却だった。 3-2. 死別 1974年、タンノイ社は、ハーマン・カードン、オルトフォン、 JBLなどを傘下に従えていた ハーマン・インターナショナルの一員となり、いわゆるアルファベットシリーズの「アーデン」「バークレイ」「チェビオット」「デボン」「イートン」などを発売する。 一方、ハーマン・インターナショナル社の社長ハーマンは、タンノイとの協議の際、タンノイ全社員の受け入れと、製品コンセプトは変更しない旨を約束していた。 その上で、今後の技術革新にタンノイ社が対応すべく、タンノイには新たな資本が投入されることとなった。 これにより研究開発部と管理部門の二つの工場が建てられ、1977年発表「バッキンガム」や「ウィンザー」、1978年発表の「メイフェア」から「オックスフォード」までの新しいラインなど、次々にタンノイの血を受け継いだ新製品が発表された。 しかし、製品が量産合理化の傾向を強めたことは確かであり、旧タンノイのスタッフはそれに不満を募らせていた。 そんな中でのことだった。 1977年12月、タンノイの創始者 ガイ・ルパート・ファウンテンは軽い病気にかかった後、永遠の眠りにつく。 享年77歳だった。 3-3. 新生タンノイ ファウンテンの葬儀には、ともに50年近く働いた数人の従業員を始め、最近タンノイ社の社員となった若者までが参列した。 彼らは「ガイ・ルパート・ファウンテン」の意思をより継承した製品づくりを実現したく、1981年、N. Jクロッカー社長やT. リビングソトンらはハーマン・インターナショナルから株を買い戻し、新生タンノイとしてタンノイを再スタートさせる。 そして、同1981年にオートグラフの流れを受け継ぐ容姿を誇る「GRFメモリー」、翌1982年にはロンドン伝統の地名を冠した「ウェストミンスター」と「エジンバラ」、1983年には「スターリング」と、15、12、10インチ口径のデュアル・コンセントリックを巧みに使いこなした新生タンノイの面目躍如たる製品をたて続けに発表。 さらに1996年には、タンノイ70年の技術と伝統を結集した4ウェイの弩級システム「キングダム」を発売する。 現在まで、必ずしも順調に経営が推移してきたわけではない英国名門のタンノイ。 それでも、こうして伝統を守りつつ進化を遂げ、タンノイは今も健在しているのである。 まとめ 人によっては、ハーマン・インターナショナルの傘下にあった1974年から1981年の間を、「タンノイ暗黒時代」と言う。 「もし、あのままアメリカ企業の傘下にあったら、今の高いブランドイメージはなかったかもしれない」。 そんな風に言う人もいる。 しかし、もしハーマン・インターナショナルがあのタイミングでタンノイを傘下に収めていなかったら、現代にタンノイという企業はなくなっていたかもしれない。 1974年という年は、ファウンテンが引退を決意した年であり、コーン・アッセンブリー工場が火災に見舞われた年である。 わたしは、ファウンテンがタンノイの将来を見据えてハーマン・インターナショナルに会社を売却した判断は正しかったと思うし、 N. Jクロッカーを中心とするタンノイのスタッフが、ハーマンから株を買い戻したことも正しかったと思う。 要するに、わたしは ガイ・ルパート・ファウンテンがタンノイを誕生させたその瞬間から今に至るまで、(もちろん1974年から1981年の8年間も含め)どの1秒を切り取っても、タンノイのフィロソフィに敬意を払うし、これからもタンノイのサウンドを愛し続けていく。 いかなるときも、一貫した主張の歴史と伝統を堅持したタンノイ。 これからも、わたしたちの心を振るわす音を期待したい。

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