藤原氏 覚え方。 中世社会の成立

日本史の暗記に役立つ語呂合わせ

藤原氏 覚え方

天皇の覚え方• 天皇の覚え方 入試問題によく出る天皇を一覧にしました。 ただし、入試問題に出る可能性のある全ての天皇を掲載したことを保証するものではありません。 天皇の覚え方のコツですが、「名前」と「やったこと」と一緒に「キャラクターの絵」も合わせて覚えてください。 「キャラクターの絵」があるだけで、大分覚えやすくなっているはずです。 古墳時代 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)[生没年不詳] 第21代天皇(在位:? 年 -? 幽霊(「ゆう」れい)っぽいキャラクター、雄略天皇です。 中国の南朝へ朝貢した「倭の五王」のうち「武」は雄略天皇のことだと考えられています。 継体天皇(けいたいてんのう)[450年? - 531年? ] 第26代天皇(在位:507年? - 531年? ケータイ電話のキャラクター、継体天皇です。 継体天皇の治世の時に百済からの五経博士が日本に儒教を伝え、「任那四県」の割譲、筑柴国造磐井の乱がありました。 欽明天皇(きんめいてんのう)[510年? - 571年? ] 第29代天皇(在位:539年? - 571年? 菌(「きん」)を保持していそう、目(「め」)に特徴があるキャラクター、欽明天皇です。 欽明天皇の頃に、百済より仏教が伝来し、任那が滅亡しました。 飛鳥時代 崇峻天皇天皇(すしゅんてんのう)[? 年 - 592年] 第32代天皇(在位:587年 - 592年)。 寿司っぽいキャラクター、崇峻天皇です。 蘇我馬子と仲が悪く、馬子の命令を受けた馬子の部下に殺害されました。 推古天皇(すいこてんのう)[554年 - 628年] 第33代天皇(在位:592年 - 628年)。 おたまじゃくしのキャラクター、推古天皇です。 初めての女性天皇です。 厩戸皇子(推古天皇の甥)と、蘇我馬子が推古天皇を補佐しました。 舒明天皇(じょめいてんのう)[593年 - 641年] 第34代天皇(在位:629年 - 641年)。 魔女っぽいキャラクター、舒明天皇です。 百済大寺を創建しました。 これは、後の大官大寺です。 皇極天皇(こうぎょくてんのう)[594年 - 661年] 第35代天皇(在位:642年 - 645年)。 黄色い玉(黄玉:こうぎょく)のキャラクター、皇極天皇です。 645年の乙巳の変の直後に孝徳天皇に在位を譲りました。 孝徳天皇(こうとくてんのう)[596年 - 654年] 第36代天皇(在位:645年 - 654年)。 黄(「こう」)、戸(「と」)、「ク」マなキャラクター、孝徳天皇です。 645年の乙巳の変の後に即位しました。 中大兄皇子を皇太子として政治改革(大化の改新)を推進しました。 斉明天皇(さいめいてんのう)[594年 - 661年] 第37代天皇(在位:655年 - 661年)。 「サイ」の足とツノを持ち、目(「め」)に特徴があるキャラクター、斉明天皇です。 大化の改新を挟んで、皇極天皇が再度天皇の座につき、斉明天皇となりました。 一度退位した天皇が再び天皇の座につくことを「重祚(ちょうそ)」といい、歴史上重祚した天皇はこの斉明天皇と、奈良時代の称徳天皇の二人だけです。 天智天皇(てんじてんのう)[626年 - 671年] 第38代天皇(在位:668年 - 671年)。 乙巳の変で中臣鎌足とともに蘇我氏を滅ぼし、大化の改新で政治改革を行った中大兄皇子が、近江大津宮で即位して天智天皇となりました。 天武天皇(てんむてんのう)[631年? - 686年] 第40代天皇(在位:673年 - 686年)。 天智天皇の弟です。 672年の壬申の乱で天智天皇の子である大友皇子に勝利した大海人皇子が、翌年飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇になりました。 八色の姓によって天皇を中心とした新たな身分秩序を定めました。 日本最初の鋳造銭貨である富本銭は天武天皇の時代に鋳造されました。 持統天皇(じとうてんのう)[645年 - 703年] 第41代天皇(在位:690年 - 697年)。 天智天皇の娘です。 即位式を行わずに政治を執る「称制」を行っ(686年 - 689年)たあと天皇となりました。 飛鳥浄御原令を施行し、庚寅年籍で班田収授を軌道にのせ律令国家を確立させ、藤原京に遷都しました。 奈良時代に作成された歴史書『日本書紀』には持統天皇の時代までの歴史が記されています。 文武天皇(もんむてんのう)[683年 - 707年] 第42代天皇(在位:697年 - 707年)。 「文」章を書く筆の触角、足が6本で虫(「む」し)っぽいキャラクター、文武天皇です。 701年に日本で初めての本格的な律令である大宝律令が完成し、翌年公布しています。 藤原宮子との間に子(聖武天皇)が生まれました。 元明天皇(げんめいてんのう)[661年 - 721年] 第43代天皇(在位:707年 - 715年)。 持統天皇の妹。 元明天皇の治世の時に皇朝十二銭の端緒である和同開珎が作られました。 奈良に都を移して平城京としました。 奈良時代 元明天皇(げんめいてんのう)[661年 - 721年] 第43代天皇(在位:707年 - 715年)。 持統天皇の妹。 元明天皇の治世の時に皇朝十二銭の端緒である和同開珎が作られました。 奈良に都を移して平城京としました。 聖武天皇(しょうむてんのう)[701年 - 756年] 第45代天皇(在位:724年 - 749年)。 「聖」なる虫(「む」し)のキャラクター、聖武天皇です。 740年の藤原広嗣の乱の後、平城京から恭仁京、難波京、紫香楽宮の順に遷都を行った後、再び平城京に遷都しました。 国分寺建立の詔を出して全国に国分寺・国分尼寺などを建立させました。 国分寺の中心をなす「総国分寺」として東大寺を建立しました。 大仏造立の詔を出して東大寺に大仏を作らせました。 孝謙天皇(こうけんてんのう)[718年 - 770年] 第46代天皇(在位:749年 - 758年)。 聖武天皇の娘です。 752年に東大寺で大仏開眼供養が、聖武太上天皇、光明皇太后も参列して盛大に行われました。 淳仁天皇(じゅんにんてんのう)[733年 - 765年] 第47代天皇(在位:758年 - 764年)。 藤原仲麻呂に後ろだてしてもらい、仲麻呂に恵美押勝の名を与えました。 この頃、孝謙上皇が道教を寵愛するようになっており、恵美押勝がこれを諫めましたが、孝謙上皇は聞かず、恵美押勝は孝謙上皇、道教らに対して764年に乱を起こしました(恵美押勝の乱)が鎮圧されました。 称徳天皇(しょうとくてんのう)[718年 - 770年] 第48代天皇(在位:764年 - 770年)。 恵美押勝の乱後、淳仁天皇を廃位させ、孝謙上皇がもう一度天皇になり、称徳天皇と称しました。 一度退位した天皇が再び天皇の座につくことを「重祚(ちょうそ)」といい、歴史上重祚した天皇はこの称徳天皇と、飛鳥時代の斉明天皇の二人だけです。 764年に世界最古の現存印刷物である百万塔陀羅尼を作らせました。 平安時代 桓武天皇(かんむてんのう)[737年 - 806年] 第50代天皇(在位:781年 - 806年)。 784年に平城京から長岡京に移すが、遷都を主導していた藤原種継が暗殺され、犯人と疑われた早良親王を処罰したところ、相次ぐ災難が発生し、陰陽師に祟りだといわれ、和気清麻呂にも勧められ794年に平安京へ都を移しました。 班田期間を6年1班から12年1班に改め、班田収授を奨励しましたが、効果は僅かでした。 雑徭を60日から30日に改め、公民の維持に努めましたが、効果は僅かでした。 平城天皇(へいぜいてんのう)[774年 - 824年] 第51代天皇(在位:806年 - 809年)。 天皇を辞して太上天皇となった後、平城遷都を主張し、藤原薬子と結び嵯峨天皇と対立しましたが、810年に薬子の変で敗れて出家しました。 嵯峨天皇(さがてんのう)[786年 - 842年] 第52代天皇(在位:809年 - 823年)。 810年の薬子の変で平城太上天皇・藤原薬子を破りました。 文化秀麗集という勅撰漢詩集を作らせました。 弘仁式という律令の保管のための法令集を作成させました。 公営田・勅旨田の設置を行いました。 平安京内の警察や裁判などを職務とする検非違使を設置しました。 藤原冬嗣を蔵人頭に任じました。 仁明天皇(にんみょうてんのう)[810年 - 850年] 第54代天皇(在位:833年 - 850年)。 仁明天皇のとき、清原夏野らによって編纂された『令義解』が施行されました。 清和天皇(せいわてんのう)[850年 - 881年] 第56代天皇(在位:858年 - 876年)。 清和天皇の時に貞観格式が編纂されました。 宇多天皇(うだてんのう)[867年 - 931年] 第59代天皇(在位:887年 - 897年)。 藤原基経を関白に任じようとした際、阿衡の紛議を起こされました。 醍醐天皇(だいごてんのう)[885年 - 930年] 第60代天皇(在位:897年 - 930年)。 摂関を置かずに親政を行いました。 左大臣を藤原時平、右大臣を菅原道真としましたが、両者が対立し、901年に菅原道真は大宰府に左遷されました。 902年に延喜の荘園整理令を発令しました。 914年に三善清行が醍醐天皇に意見十二箇条を提出しました。 朱雀天皇(すざくてんのう)[923年 - 952年] 第61代天皇(在位:930年 - 946年)。 朱雀天皇の時代には、藤原忠平が摂関として取り仕切っていました。 村上天皇(むらかみてんのう)[926年 - 967年] 第62代天皇(在位:946年 - 967年)。 当初、藤原忠平が摂関として取り仕切っていましたが、忠平の没後は摂関を置かずに親政を行いました。 村上天皇の時代には皇朝十二銭の最後である乾元大宝が発行されました。 村上天皇の時代に2番目の勅撰和歌集である『後撰和歌集』が編纂されました。 一条天皇(いちじょうてんのう)[980年 - 1011年] 第66代天皇(在位:986年 - 1011年)。 一条天皇の時代に3番目の勅撰和歌集である『拾遺和歌集』が編纂さましれた。 後一条天皇(ごいちじょうてんのう)[1008年 - 1036年] 第68代天皇(在位:1016年 - 1036年)。 藤原道長の外孫。 後朱雀天皇(ごすざくてんのう)[1009年 - 1045年] 第69代天皇(在位:1036年 - 1045年)。 藤原道長の外孫。 後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)[1025年 - 1068年] 第70代天皇(在位:1045年 - 1068年)。 藤原道長の外孫。 後三条天皇(ごさんじょうてんのう)[1034年 - 1073年] 第71代天皇(在位:1068年 - 1072年)。 宇多天皇以来170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇。 違法荘園の整理のために1069年に延久の荘園整理令を発布し、その審査を行う機関として記録荘園券契所を設置しました。 白河天皇の父親です。 白河天皇(しらかわてんのう)[1053年 - 1129年] 第72代天皇(在位:1072年 - 1086年)。 父親は後三条天皇。 六勝寺のひとつである「法勝寺」を建てました。 院政を始めるにあたり、堀河天皇を即位させました。 1086年から上皇となり、院政を始めました。 白河上皇は本格的な院政を最初に始めた人です 堀河天皇(ほりかわてんのう)[1079年 - 1107年] 第73代天皇(在位:1086年 - 1107年)。 父親は白河上皇。 白河天皇が院政を始めるにあたり即位させました。 善政を行い「末代の賢王」と呼ばれました。 六勝寺のひとつである「尊勝寺」を建てました。 鳥羽天皇(とばてんのう)[1003年 - 1156年] 第74代天皇(在位:1107年 - 1123年)。 六勝寺のひとつである最勝寺を建てました。 崇徳天皇(すとくてんのう)[1119年 - 1164年] 第75代天皇(在位:1123年 - 1141年)。 上皇になった後の1156年に保元の乱で後白河天皇と争って敗れました。 後白河天皇(ごしらかわてんのう)[1127年 - 1192年] 第77代天皇(在位:1155年 - 1158年)。 1156年に保元の乱で崇徳上皇を破りました。 上皇になった後、御所として三十三間堂が造営されましたが、その三十三間堂を本堂とする寺院を蓮華王院と言います。 (平安時代末期当時にとっての)現代風の歌謡である今様を愛好していました。 高倉天皇(たかくらてんのう)[1161年 - 1181年] 第80代天皇(在位:1168年 - 1180年)。 平清盛の娘を中宮(妻)とし、安徳天皇が生まれました。 安徳天皇(あんとくてんのう)[1178年 - 1185年] 第81代天皇(在位:1180年 - 1185年)。 高倉天皇と、平清盛の娘との間に生まれた子。 鎌倉時代 後鳥羽天皇(ごとばてんのう)[1180年 - 1239年] 第82代天皇(在位:1183年 - 1198年)。 1198年から上皇となり院政を行いました。 1205年に藤原定家に『新古今和歌集』を作成させました。 1221年に承久の乱で北条義時と争いましたが、、敗れ、隠岐へ流されました。 後嵯峨天皇(ごさがてんのう)[1220年 - 1272年] 第88代天皇(在位:1242年 - 1246年)。 後深草天皇(ごふかくさてんのう)[1243年 - 1304年] 第89代天皇(在位:1246年 - 1260年)。 父母が自身より弟の亀山天皇を寵愛したため不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立が生じるようになりました。。 亀山天皇(かめやまてんのう)[1249年 - 1305年] 第90代天皇(在位:1260年 - 1274年)。 大覚寺統の祖。 兄の後深草天皇を差し置いて父母から寵愛され、やがて亀山系の大覚寺統と後深草系の持明院統との対立が生じることとなりました。 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)[1288年 - 1339年] 第96代天皇(在位:1318年 - 1339年)。 大覚寺統。 鎌倉幕府の力で天皇となりました。 自らの立場の弱さに不満を持ち鎌倉幕府打倒を計画しました。 1324年に後醍醐天皇の最初の倒幕計画である「正中の変」と呼ばれる事件がありましたが、事前に発覚して失敗しました。 1331年に後醍醐天皇の次の倒幕計画である「元寇の変」と呼ばれる事件がありましたが、事前に発覚して失敗し、後醍醐天皇は隠岐へ流されました。 1333年に隠岐から脱出し、悪党などを味方に付けて幕府を倒しました。 建武の新政 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)[1288年 - 1339年] 第96代天皇、および南朝の初代天皇(在位:1318年 - 1339年)。 鎌倉幕府滅亡後の1333年に建武の新政を始めました。 天皇親政の象徴として大内裏造営計画を行いますが、建武の新政が短期間で破綻したため実行されませんでした。 二条河原の落書で建武の新政を批判する落書が書かれました。 足利尊氏と対立し吉野に逃れて抵抗を続けました。 この皇統が南朝となります。 室町時代 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)[1288年 - 1339年] 第96代天皇、および南朝の初代天皇(在位1318年 - 1339年)。 足利尊氏と対立した後醍醐天皇は吉野に逃れて抵抗を続けました。 その皇統が南朝となりました。 光明天皇(こうみょうてんのう)[1322年 - 1380年] 北朝第2代天皇(在位:1336年 - 1348年)。 北朝・南朝の分裂は足利尊氏が後醍醐天皇に対抗して光明天皇を擁立したことに始まります。 後亀山天皇(ごかめやまてんのう)[? 年 - 1424年] 南朝最後の天皇(在位:1383年 - 1392年)。 1392年に足利義満の説得を受け南北朝の合体を実現しました。 後小松天皇(ごこまつてんのう)[1377年 - 1433年] 南北朝合体時の北朝の天皇(在位:1382年 - 1412年)。 安土桃山時代 正親町天皇(おおぎまちてんのう)[1517年 - 1593年] 第106代天皇(在位1557年 - 1586年)。 織田信長と石山本願寺の争いの講和を仲介しました。 江戸時代 後水尾天皇(ごみずのおてんのう)[1596年 - 1680年] 第108代天皇(在位1611年 - 1629年)。 1627年に紫衣事件を起こしました。 1629年に幕府の同意なく明正天皇に譲位しました。 明正天皇(めいしょうてんのう)[1624年 - 1696年] 第109代天皇(在位:1629年 - 1643年)。 徳川和子の子。 後水尾天皇が幕府の同意を得ずに明正天皇に譲位しましたが明正天皇は徳川秀忠の娘の徳川和子の子ということもあり、幕府はこれを追認しました。 1634年には徳川家光が将軍の権威を示すために明正天皇のもとに軍勢を率いて上洛しました。 霊元天皇(れいげんてんのう)[1654年 - 1732年] 第112代天皇(在位:1663年 - 1687年)。 上皇となった後の1687年の東山天皇即位の際、大嘗会の再興を幕府に願い、実現させました。 後桜町天皇(ごさくらまちてんのう)[1740年 - 1813年] 第117代天皇(在位:1762年 - 1770年)。 江戸時代で二度目の女性天皇です。 光格天皇(こうかくてんのう)[1771年 - 1840年] 第119代天皇(在位:1780年 - 1817年)。 1789年に尊号一件とよばれる事件を起こしました。 孝明天皇(こうめいてんのう)[1831年 - 1867年] 第121代天皇(在位:1846年 - 1866年)。 井伊直弼が日米修好通商条約に調印したことに強く反対しました。 孝明天皇の妹の和宮が徳川家茂と結婚しました。 1865年に徳川家茂の請願を受けて、アメリカとの日米修好通商条約ほかイギリス、フランス、オランダ、ロシアとの通商条約を勅許しました。 明治天皇(めいじてんのう)[1852年 - 1912年] 第122代天皇(在位:1867年 - 1912年)。 1867年に大政奉還を行いました。 同じく1867年に王政復古の大号令を行いました。 明治時代には大日本帝国憲法を制定し、日清戦争・日露戦争で勝利しました。 以上が覚えるべき天皇となります。 ぜひ覚えてください。 トップページ 絵で覚える日本史単語帳 絵で覚える日本史単語帳の索引 日本史テーマ別 twitter始めました。

次の

【南都七大寺の語呂合わせ】簡単!七大寺の覚え方を紹介【おすすめ3選】

藤原氏 覚え方

概要 [ ] の代表的なものの一つとして・・とともに「源平藤橘」(四姓)と総称され、その筆頭氏族である。 がの功によりに賜った「藤原」のが、子のの代に認められたのに始まる。 鎌足がの出身であるため、祖は中臣氏と同じくと伝える。 に・・・の四家に分かれ、には北家がと姻戚関係を結んでを行った。 藤原氏の一族は、奈良時代から平安時代までは本姓の「藤原」を称したが、以降は姓の藤原ではなく、「」「」「」「」「」などのに相当する家名を名のり、公式な文書以外では「藤原」とは名乗らなかった。 これらをあわせると特に朝廷における比率は圧倒的であり、地方に散った後裔などもふくめ、においては(およびその流れを汲むなど)に次いで大きな広がりと歴史を持つ家系である。 江戸時代の朝廷において大臣就任の資格を持つ上位公卿17家系(摂家、清華家、大臣家)のうち14家系が藤原氏、残り3家系が源氏であり、徳川をはじめとした主要武家の多くも源平や藤原流を称していることを併せると、皇統と藤原氏の二つだけの血流が支配階級をほぼ独占するという世界でも稀な状態であった。 ただし全国に散らばる藤原氏同族とされる雄族の多くが、藤原氏と氏神を共有せず、地方への赴任事情が不明であり、系図上でも親子関係などで疑問が残るものも存在する。 これらの事情には、他の氏族の後裔が藤原氏の一族の養子・猶子となるか、先祖の系図を藤原氏に無理矢理接続させたという類例が武家では非常に多いためとされる。 また地方の古族(やなど)で先祖が不詳になったものには、中央の権門勢家にかこつけ藤原氏一族と称したものも数多く存在したと見られ、佐藤・斎藤・伊藤・加藤・後藤・武藤・近藤・安藤・尾藤・遠藤などはその多くが本来藤原氏とは無関係であったとも見られる。 出自 [ ] 藤原氏の祖である は、中大兄皇子()とともにからに至る諸改革に携わった。 その後功績を称えられ、死の直前に天智天皇から 藤原姓を与えられたとされる。 藤原の名は鎌足の生地・藤原(のちの地帯、現 )にちなむ。 通説では、鎌足の子である不比等がその姓を引き継ぎ、以後不比等の流が藤原朝臣と認められたとされる。 他方、この時に与えられた藤原の姓は鎌足一代のものであり、後に改めて鎌足の遺族に藤原朝臣の姓が与えられたとする説 もある。 この見解は、鎌足の死後を率いた・がで大友皇子()方について敗北し処刑されたため、乱とは無関係の鎌足流も一時衰亡の危機を迎えたことを一因とする。 乱平定ののち、13年()にが定められた際には、朝臣を与えられた52氏の中に「藤原」の姓は登場せず、鎌足の嫡男である不比等を含めた鎌足の一族は「中臣連(後に朝臣)」と名乗っていたとする。 そして『』に鎌足没後最初に「藤原」が登場する翌天武天皇14年()9月以前に、鎌足の遺族に対してあらためて「藤原朝臣」が与えられその範囲が定められた、とするものである。 いずれにしても、当時不比等がまだ若かったこともあって不比等以外の成員にも藤原朝臣が与えられ、鎌足の一族であった中臣大嶋や(鎌足のでもある)が、不比等が成長するまでの中継ぎとして暫定的に「氏上」(うじのかみ)に就いていたとみられている。 のちに不比等が成長して頭角を現すと、藤原氏がを、中臣氏がを領掌する体制とするため、2年()8月鎌足の嫡男である不比等の家系以外は元の「中臣」姓に戻された。 藤原氏分離後の中臣氏 [ ] 中臣意美麻呂は中臣姓に復帰後に不比等の推薦でとなり、その七男のは右大臣まで昇った。 そのため、以後はこの子孫が中臣氏のとされて特に「」と称されるようになった。 以降になると他の中臣氏も大中臣氏を名乗るようになるが、清麻呂の系統が嫡流であることは変わらず、としてに列する。 歴史 [ ] 飛鳥時代 [ ] 末年頃に少壮官僚であった は、元年()8月に持統天皇の譲位により即位した軽皇子()に娘のが夫人となっており、中央政界に台頭する。 藤原不比等は、らとともにと、それに続くを編纂しての確立に貢献した。 さらに宮子が首皇子(後の)を産むと、のにも娘の光明子(後の)を入れて、天皇の姻戚としての地位を確立した。 文武天皇以降、天皇のほとんどの后・妃が藤原氏の娘となる。 なお、不比等の出生について『興福寺縁起』には「公避くる所の事有り」とあり、これは不比等がの御であることを意味するとされる。 『』、『』、『』にはその旨が明記される。 奈良時代 [ ] 不比等の死後、外孫である首皇子(聖武天皇)が皇位に就くと、不比等の男子である・・・のと天武天皇の孫であるらを中心とする一派の対立が深まっていった。 (元年)、が起こり長屋王は自害する。 これは、藤原四兄弟が自分達の異母妹で天皇の妃であるを史上初の皇族以外出自のに立てるため、反対する長屋王を讒言により陥れた陰謀事件であったとされる。 なお、光明子の立后によって藤原氏の地位が向上することは、藤原氏を母方の実家とする聖武天皇にとっても好都合であることから、天皇の意向を受けた政変であったとも解される。 藤原四兄弟は、それぞれの、の、の、のの4家に分かれ、 の祖となった。 (天平3年)、役人達の投票によって四兄弟全員がに昇った。 これは藤原氏が単に政策のみならず、不比等以来編纂に関わってきた実績をもって組織を掌握していったことの証でもあった。 この中で、京家は最も振るわず早々に政治の舞台から姿を消すこととなる。 (天平9年)、の大流行で藤原四兄弟が相次いで病死する。 それを受けて、、らが藤原氏の突出を抑えようと努めたが、の信任を得た南家・(武智麻呂の子)の台頭により抑えられた。 仲麻呂は(元年)には諸兄の子・も排除した()。 仲麻呂は独裁的な権力を振るうが、の寵愛を得たが台頭し、(天平宝字8年)ので敗死した。 藤原仲麻呂の失脚で藤原氏は沈みがちであったが、式家の・や北家・の尽力で再興する。 以降は南・北・式の3家が競い合うが、やがて政争や一族の反乱で南家・式家は前期には衰退し、が最も栄えることとなった。 平安時代 [ ] 以降の歴史はも参照。 中期以後は、 のみが栄えた。 はのとなり、人臣で初めてのとなった。 そして、良房の養子・もまた、の外戚として摂政とを務めた。 と姻戚関係を結んで他氏の排斥と権力増強を行う路線は代々引き継がれ、(9年)から(2年)に至る一連の事件で藤原北家の他氏排斥が完了する。 ・父子の代になるとの最盛期を極めた。 平安後期になると、藤原氏と姻戚関係を持たないによるが始まり、さらに両氏のと移行するにつれ藤原氏の権勢は後退した。 但し、その後も末期に至るまで摂政・関白は(を除き)藤原北家のこの系統に限られていくようになる。 藤原北家以外で関白となったのはただ一人(秀吉は藤原秀吉として)であり、以外からの摂政は例がない。 鎌倉時代以降 [ ]• 789-796• 796-812• 812-818• 818-826• 826-843• 843-872• 872-891• 891-897• 897-909• 909-949• 949-970• 970-972• 972-974• 974-977• 977-986• 986-990• 990-995• 995• 995-1017• 1017-1064• 1064-1075• 1075-1094• 1094-1098• 1098-1121• 1121-1150• 1150-1156• 1156-1158• 1158-1166• 1166-1179• 1179-1183• 1183-1184• 1184-1186 鎌倉時代• 1186-1196• 1196-1202• 1202-1206• 1206-1221• 1221• 1221-1228• 1228-1231• 1231-1235• 1235-1237• 1237-1242• 1242-1246• 1246-1247• 1247-1252• 1252-1261• 1261-1265• 1265-1267• 1267-1268• 1268-1273• 1273-1274• 1274-1275• 1275-1287• 1287-1289• 1289-1291• 1291-1293• 1293-1296• 1296-1299• 1299-1305• 1305-1308• 1308-1313• 1313-1315• 1315-1316• 1316-1318• 1318-1323• 1323-1324• 1324-1327• 1327-1330• 1330• 1330-1333 南北朝時代• 1600-1604• 1605-1606• 1606-1608• 1608-1612• 1612-1615• 1615-1619• 1619-1623• 1623-1629• 1629-1635• 1635-1647• 1647• 1647-1651• 1651-1653• 1653-1664• 1664-1682• 1682-1690• 1690-1703• 1703-1707• 1707-1711• 1711-1722• 1722-1726• 1726-1736• 1736-1737• 1737-1746• 1746-1757• 1757-1778• 1778-1787• 1787-1791• 1791-1795• 1795-1814• 1814-1823• 1823-1856• 1856-1862• 1862-1863• 1863• 1864-1867• 1868-1871 その他、著名な藤原姓の人物に関しては を参照。 特に摂政・関白については を参照。 現代の藤原氏 [ ] 現在の研究では、庶民の苗字は明治初めにもともと先祖伝来のものをに載せた場合が多いとされる。 また、藤原氏の公家諸家は平安末期・鎌倉時代以降、公式文書以外で「藤原」を使わず「近衛」「九条」「鷹司」「二条」「一条」など各家の名称を名乗り、維新後もそれを名字とした。 現代の藤原氏は親類やゆかりのある人間と考えられている。 真偽はともかくとして、明治の元勲ではが「藤原朝臣利通」、が「藤原朝臣永敏」と公文書に姓(カバネ)と諱(いみな)を記載している。 現代の藤原氏の家紋も下がり藤である。 「藤裔会」として、年1回秋頃に全国の藤原氏の末裔がのに集合し、親睦を兼ねた会合などが執り行われている。 藤原氏由来の苗字 [ ] 藤原氏由来とされるの代表例を以下に示す。 十六藤 (じゅうろくとう) - 以下の16の苗字の総称(読みは「とう」または「どう」、人口の多い順)• 01佐藤 - ・/• 02伊藤 - ・• 03斎藤 -• 04加藤 -• 05後藤 - ・/藤原氏後裔• 06近藤 - /• 07遠藤 -• 08工藤 -• 09安藤 - ・・・・下野国安蘇郡• 10内藤 - ・• 11須藤 - 下野国• 12武藤 - /• 13進藤 -• 14新藤 -• 15神藤 -• 16春藤 - 十六藤以外で、藤原氏由来とされる苗字。 藤を「とう」と読まない場合もある。 江藤 - ・• 衛藤 -• 海東 -• 紀藤 -• 岡藤 -• 左藤 -• 信藤 - 信濃国• 首藤 - 主馬• 周藤 -• 尾藤 -• 兵藤 - 参考文献 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 () 元は「多武峯妙楽寺」という名の寺院。 鎌足の子・の創建。 伝・鎌足墓所、伝・不比等墓所が所在。 (奈良県) は下記4柱で、合わせて「」と呼ばれ、藤原氏からとして崇敬を受けた。 全国のは、当社や藤原氏子孫によるに由来する。 (祭神) - 出身のに由来• (祭神) - 上に同じ• (中臣氏祖神)• (天児屋根命妻)• () - 元春日• (大原野) - に伴い春日大社から分祀• (京都市) - 遷都に伴い春日大社から分祀 寺院• (奈良県奈良市) - 藤原氏の その他• 『』 - 奈良時代に成立した藤原氏の家伝書• - 藤原氏による平安時代の.

次の

【南都七大寺の語呂合わせ】簡単!七大寺の覚え方を紹介【おすすめ3選】

藤原氏 覚え方

天皇の覚え方• 天皇の覚え方 入試問題によく出る天皇を一覧にしました。 ただし、入試問題に出る可能性のある全ての天皇を掲載したことを保証するものではありません。 天皇の覚え方のコツですが、「名前」と「やったこと」と一緒に「キャラクターの絵」も合わせて覚えてください。 「キャラクターの絵」があるだけで、大分覚えやすくなっているはずです。 古墳時代 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)[生没年不詳] 第21代天皇(在位:? 年 -? 幽霊(「ゆう」れい)っぽいキャラクター、雄略天皇です。 中国の南朝へ朝貢した「倭の五王」のうち「武」は雄略天皇のことだと考えられています。 継体天皇(けいたいてんのう)[450年? - 531年? ] 第26代天皇(在位:507年? - 531年? ケータイ電話のキャラクター、継体天皇です。 継体天皇の治世の時に百済からの五経博士が日本に儒教を伝え、「任那四県」の割譲、筑柴国造磐井の乱がありました。 欽明天皇(きんめいてんのう)[510年? - 571年? ] 第29代天皇(在位:539年? - 571年? 菌(「きん」)を保持していそう、目(「め」)に特徴があるキャラクター、欽明天皇です。 欽明天皇の頃に、百済より仏教が伝来し、任那が滅亡しました。 飛鳥時代 崇峻天皇天皇(すしゅんてんのう)[? 年 - 592年] 第32代天皇(在位:587年 - 592年)。 寿司っぽいキャラクター、崇峻天皇です。 蘇我馬子と仲が悪く、馬子の命令を受けた馬子の部下に殺害されました。 推古天皇(すいこてんのう)[554年 - 628年] 第33代天皇(在位:592年 - 628年)。 おたまじゃくしのキャラクター、推古天皇です。 初めての女性天皇です。 厩戸皇子(推古天皇の甥)と、蘇我馬子が推古天皇を補佐しました。 舒明天皇(じょめいてんのう)[593年 - 641年] 第34代天皇(在位:629年 - 641年)。 魔女っぽいキャラクター、舒明天皇です。 百済大寺を創建しました。 これは、後の大官大寺です。 皇極天皇(こうぎょくてんのう)[594年 - 661年] 第35代天皇(在位:642年 - 645年)。 黄色い玉(黄玉:こうぎょく)のキャラクター、皇極天皇です。 645年の乙巳の変の直後に孝徳天皇に在位を譲りました。 孝徳天皇(こうとくてんのう)[596年 - 654年] 第36代天皇(在位:645年 - 654年)。 黄(「こう」)、戸(「と」)、「ク」マなキャラクター、孝徳天皇です。 645年の乙巳の変の後に即位しました。 中大兄皇子を皇太子として政治改革(大化の改新)を推進しました。 斉明天皇(さいめいてんのう)[594年 - 661年] 第37代天皇(在位:655年 - 661年)。 「サイ」の足とツノを持ち、目(「め」)に特徴があるキャラクター、斉明天皇です。 大化の改新を挟んで、皇極天皇が再度天皇の座につき、斉明天皇となりました。 一度退位した天皇が再び天皇の座につくことを「重祚(ちょうそ)」といい、歴史上重祚した天皇はこの斉明天皇と、奈良時代の称徳天皇の二人だけです。 天智天皇(てんじてんのう)[626年 - 671年] 第38代天皇(在位:668年 - 671年)。 乙巳の変で中臣鎌足とともに蘇我氏を滅ぼし、大化の改新で政治改革を行った中大兄皇子が、近江大津宮で即位して天智天皇となりました。 天武天皇(てんむてんのう)[631年? - 686年] 第40代天皇(在位:673年 - 686年)。 天智天皇の弟です。 672年の壬申の乱で天智天皇の子である大友皇子に勝利した大海人皇子が、翌年飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇になりました。 八色の姓によって天皇を中心とした新たな身分秩序を定めました。 日本最初の鋳造銭貨である富本銭は天武天皇の時代に鋳造されました。 持統天皇(じとうてんのう)[645年 - 703年] 第41代天皇(在位:690年 - 697年)。 天智天皇の娘です。 即位式を行わずに政治を執る「称制」を行っ(686年 - 689年)たあと天皇となりました。 飛鳥浄御原令を施行し、庚寅年籍で班田収授を軌道にのせ律令国家を確立させ、藤原京に遷都しました。 奈良時代に作成された歴史書『日本書紀』には持統天皇の時代までの歴史が記されています。 文武天皇(もんむてんのう)[683年 - 707年] 第42代天皇(在位:697年 - 707年)。 「文」章を書く筆の触角、足が6本で虫(「む」し)っぽいキャラクター、文武天皇です。 701年に日本で初めての本格的な律令である大宝律令が完成し、翌年公布しています。 藤原宮子との間に子(聖武天皇)が生まれました。 元明天皇(げんめいてんのう)[661年 - 721年] 第43代天皇(在位:707年 - 715年)。 持統天皇の妹。 元明天皇の治世の時に皇朝十二銭の端緒である和同開珎が作られました。 奈良に都を移して平城京としました。 奈良時代 元明天皇(げんめいてんのう)[661年 - 721年] 第43代天皇(在位:707年 - 715年)。 持統天皇の妹。 元明天皇の治世の時に皇朝十二銭の端緒である和同開珎が作られました。 奈良に都を移して平城京としました。 聖武天皇(しょうむてんのう)[701年 - 756年] 第45代天皇(在位:724年 - 749年)。 「聖」なる虫(「む」し)のキャラクター、聖武天皇です。 740年の藤原広嗣の乱の後、平城京から恭仁京、難波京、紫香楽宮の順に遷都を行った後、再び平城京に遷都しました。 国分寺建立の詔を出して全国に国分寺・国分尼寺などを建立させました。 国分寺の中心をなす「総国分寺」として東大寺を建立しました。 大仏造立の詔を出して東大寺に大仏を作らせました。 孝謙天皇(こうけんてんのう)[718年 - 770年] 第46代天皇(在位:749年 - 758年)。 聖武天皇の娘です。 752年に東大寺で大仏開眼供養が、聖武太上天皇、光明皇太后も参列して盛大に行われました。 淳仁天皇(じゅんにんてんのう)[733年 - 765年] 第47代天皇(在位:758年 - 764年)。 藤原仲麻呂に後ろだてしてもらい、仲麻呂に恵美押勝の名を与えました。 この頃、孝謙上皇が道教を寵愛するようになっており、恵美押勝がこれを諫めましたが、孝謙上皇は聞かず、恵美押勝は孝謙上皇、道教らに対して764年に乱を起こしました(恵美押勝の乱)が鎮圧されました。 称徳天皇(しょうとくてんのう)[718年 - 770年] 第48代天皇(在位:764年 - 770年)。 恵美押勝の乱後、淳仁天皇を廃位させ、孝謙上皇がもう一度天皇になり、称徳天皇と称しました。 一度退位した天皇が再び天皇の座につくことを「重祚(ちょうそ)」といい、歴史上重祚した天皇はこの称徳天皇と、飛鳥時代の斉明天皇の二人だけです。 764年に世界最古の現存印刷物である百万塔陀羅尼を作らせました。 平安時代 桓武天皇(かんむてんのう)[737年 - 806年] 第50代天皇(在位:781年 - 806年)。 784年に平城京から長岡京に移すが、遷都を主導していた藤原種継が暗殺され、犯人と疑われた早良親王を処罰したところ、相次ぐ災難が発生し、陰陽師に祟りだといわれ、和気清麻呂にも勧められ794年に平安京へ都を移しました。 班田期間を6年1班から12年1班に改め、班田収授を奨励しましたが、効果は僅かでした。 雑徭を60日から30日に改め、公民の維持に努めましたが、効果は僅かでした。 平城天皇(へいぜいてんのう)[774年 - 824年] 第51代天皇(在位:806年 - 809年)。 天皇を辞して太上天皇となった後、平城遷都を主張し、藤原薬子と結び嵯峨天皇と対立しましたが、810年に薬子の変で敗れて出家しました。 嵯峨天皇(さがてんのう)[786年 - 842年] 第52代天皇(在位:809年 - 823年)。 810年の薬子の変で平城太上天皇・藤原薬子を破りました。 文化秀麗集という勅撰漢詩集を作らせました。 弘仁式という律令の保管のための法令集を作成させました。 公営田・勅旨田の設置を行いました。 平安京内の警察や裁判などを職務とする検非違使を設置しました。 藤原冬嗣を蔵人頭に任じました。 仁明天皇(にんみょうてんのう)[810年 - 850年] 第54代天皇(在位:833年 - 850年)。 仁明天皇のとき、清原夏野らによって編纂された『令義解』が施行されました。 清和天皇(せいわてんのう)[850年 - 881年] 第56代天皇(在位:858年 - 876年)。 清和天皇の時に貞観格式が編纂されました。 宇多天皇(うだてんのう)[867年 - 931年] 第59代天皇(在位:887年 - 897年)。 藤原基経を関白に任じようとした際、阿衡の紛議を起こされました。 醍醐天皇(だいごてんのう)[885年 - 930年] 第60代天皇(在位:897年 - 930年)。 摂関を置かずに親政を行いました。 左大臣を藤原時平、右大臣を菅原道真としましたが、両者が対立し、901年に菅原道真は大宰府に左遷されました。 902年に延喜の荘園整理令を発令しました。 914年に三善清行が醍醐天皇に意見十二箇条を提出しました。 朱雀天皇(すざくてんのう)[923年 - 952年] 第61代天皇(在位:930年 - 946年)。 朱雀天皇の時代には、藤原忠平が摂関として取り仕切っていました。 村上天皇(むらかみてんのう)[926年 - 967年] 第62代天皇(在位:946年 - 967年)。 当初、藤原忠平が摂関として取り仕切っていましたが、忠平の没後は摂関を置かずに親政を行いました。 村上天皇の時代には皇朝十二銭の最後である乾元大宝が発行されました。 村上天皇の時代に2番目の勅撰和歌集である『後撰和歌集』が編纂されました。 一条天皇(いちじょうてんのう)[980年 - 1011年] 第66代天皇(在位:986年 - 1011年)。 一条天皇の時代に3番目の勅撰和歌集である『拾遺和歌集』が編纂さましれた。 後一条天皇(ごいちじょうてんのう)[1008年 - 1036年] 第68代天皇(在位:1016年 - 1036年)。 藤原道長の外孫。 後朱雀天皇(ごすざくてんのう)[1009年 - 1045年] 第69代天皇(在位:1036年 - 1045年)。 藤原道長の外孫。 後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)[1025年 - 1068年] 第70代天皇(在位:1045年 - 1068年)。 藤原道長の外孫。 後三条天皇(ごさんじょうてんのう)[1034年 - 1073年] 第71代天皇(在位:1068年 - 1072年)。 宇多天皇以来170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇。 違法荘園の整理のために1069年に延久の荘園整理令を発布し、その審査を行う機関として記録荘園券契所を設置しました。 白河天皇の父親です。 白河天皇(しらかわてんのう)[1053年 - 1129年] 第72代天皇(在位:1072年 - 1086年)。 父親は後三条天皇。 六勝寺のひとつである「法勝寺」を建てました。 院政を始めるにあたり、堀河天皇を即位させました。 1086年から上皇となり、院政を始めました。 白河上皇は本格的な院政を最初に始めた人です 堀河天皇(ほりかわてんのう)[1079年 - 1107年] 第73代天皇(在位:1086年 - 1107年)。 父親は白河上皇。 白河天皇が院政を始めるにあたり即位させました。 善政を行い「末代の賢王」と呼ばれました。 六勝寺のひとつである「尊勝寺」を建てました。 鳥羽天皇(とばてんのう)[1003年 - 1156年] 第74代天皇(在位:1107年 - 1123年)。 六勝寺のひとつである最勝寺を建てました。 崇徳天皇(すとくてんのう)[1119年 - 1164年] 第75代天皇(在位:1123年 - 1141年)。 上皇になった後の1156年に保元の乱で後白河天皇と争って敗れました。 後白河天皇(ごしらかわてんのう)[1127年 - 1192年] 第77代天皇(在位:1155年 - 1158年)。 1156年に保元の乱で崇徳上皇を破りました。 上皇になった後、御所として三十三間堂が造営されましたが、その三十三間堂を本堂とする寺院を蓮華王院と言います。 (平安時代末期当時にとっての)現代風の歌謡である今様を愛好していました。 高倉天皇(たかくらてんのう)[1161年 - 1181年] 第80代天皇(在位:1168年 - 1180年)。 平清盛の娘を中宮(妻)とし、安徳天皇が生まれました。 安徳天皇(あんとくてんのう)[1178年 - 1185年] 第81代天皇(在位:1180年 - 1185年)。 高倉天皇と、平清盛の娘との間に生まれた子。 鎌倉時代 後鳥羽天皇(ごとばてんのう)[1180年 - 1239年] 第82代天皇(在位:1183年 - 1198年)。 1198年から上皇となり院政を行いました。 1205年に藤原定家に『新古今和歌集』を作成させました。 1221年に承久の乱で北条義時と争いましたが、、敗れ、隠岐へ流されました。 後嵯峨天皇(ごさがてんのう)[1220年 - 1272年] 第88代天皇(在位:1242年 - 1246年)。 後深草天皇(ごふかくさてんのう)[1243年 - 1304年] 第89代天皇(在位:1246年 - 1260年)。 父母が自身より弟の亀山天皇を寵愛したため不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立が生じるようになりました。。 亀山天皇(かめやまてんのう)[1249年 - 1305年] 第90代天皇(在位:1260年 - 1274年)。 大覚寺統の祖。 兄の後深草天皇を差し置いて父母から寵愛され、やがて亀山系の大覚寺統と後深草系の持明院統との対立が生じることとなりました。 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)[1288年 - 1339年] 第96代天皇(在位:1318年 - 1339年)。 大覚寺統。 鎌倉幕府の力で天皇となりました。 自らの立場の弱さに不満を持ち鎌倉幕府打倒を計画しました。 1324年に後醍醐天皇の最初の倒幕計画である「正中の変」と呼ばれる事件がありましたが、事前に発覚して失敗しました。 1331年に後醍醐天皇の次の倒幕計画である「元寇の変」と呼ばれる事件がありましたが、事前に発覚して失敗し、後醍醐天皇は隠岐へ流されました。 1333年に隠岐から脱出し、悪党などを味方に付けて幕府を倒しました。 建武の新政 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)[1288年 - 1339年] 第96代天皇、および南朝の初代天皇(在位:1318年 - 1339年)。 鎌倉幕府滅亡後の1333年に建武の新政を始めました。 天皇親政の象徴として大内裏造営計画を行いますが、建武の新政が短期間で破綻したため実行されませんでした。 二条河原の落書で建武の新政を批判する落書が書かれました。 足利尊氏と対立し吉野に逃れて抵抗を続けました。 この皇統が南朝となります。 室町時代 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)[1288年 - 1339年] 第96代天皇、および南朝の初代天皇(在位1318年 - 1339年)。 足利尊氏と対立した後醍醐天皇は吉野に逃れて抵抗を続けました。 その皇統が南朝となりました。 光明天皇(こうみょうてんのう)[1322年 - 1380年] 北朝第2代天皇(在位:1336年 - 1348年)。 北朝・南朝の分裂は足利尊氏が後醍醐天皇に対抗して光明天皇を擁立したことに始まります。 後亀山天皇(ごかめやまてんのう)[? 年 - 1424年] 南朝最後の天皇(在位:1383年 - 1392年)。 1392年に足利義満の説得を受け南北朝の合体を実現しました。 後小松天皇(ごこまつてんのう)[1377年 - 1433年] 南北朝合体時の北朝の天皇(在位:1382年 - 1412年)。 安土桃山時代 正親町天皇(おおぎまちてんのう)[1517年 - 1593年] 第106代天皇(在位1557年 - 1586年)。 織田信長と石山本願寺の争いの講和を仲介しました。 江戸時代 後水尾天皇(ごみずのおてんのう)[1596年 - 1680年] 第108代天皇(在位1611年 - 1629年)。 1627年に紫衣事件を起こしました。 1629年に幕府の同意なく明正天皇に譲位しました。 明正天皇(めいしょうてんのう)[1624年 - 1696年] 第109代天皇(在位:1629年 - 1643年)。 徳川和子の子。 後水尾天皇が幕府の同意を得ずに明正天皇に譲位しましたが明正天皇は徳川秀忠の娘の徳川和子の子ということもあり、幕府はこれを追認しました。 1634年には徳川家光が将軍の権威を示すために明正天皇のもとに軍勢を率いて上洛しました。 霊元天皇(れいげんてんのう)[1654年 - 1732年] 第112代天皇(在位:1663年 - 1687年)。 上皇となった後の1687年の東山天皇即位の際、大嘗会の再興を幕府に願い、実現させました。 後桜町天皇(ごさくらまちてんのう)[1740年 - 1813年] 第117代天皇(在位:1762年 - 1770年)。 江戸時代で二度目の女性天皇です。 光格天皇(こうかくてんのう)[1771年 - 1840年] 第119代天皇(在位:1780年 - 1817年)。 1789年に尊号一件とよばれる事件を起こしました。 孝明天皇(こうめいてんのう)[1831年 - 1867年] 第121代天皇(在位:1846年 - 1866年)。 井伊直弼が日米修好通商条約に調印したことに強く反対しました。 孝明天皇の妹の和宮が徳川家茂と結婚しました。 1865年に徳川家茂の請願を受けて、アメリカとの日米修好通商条約ほかイギリス、フランス、オランダ、ロシアとの通商条約を勅許しました。 明治天皇(めいじてんのう)[1852年 - 1912年] 第122代天皇(在位:1867年 - 1912年)。 1867年に大政奉還を行いました。 同じく1867年に王政復古の大号令を行いました。 明治時代には大日本帝国憲法を制定し、日清戦争・日露戦争で勝利しました。 以上が覚えるべき天皇となります。 ぜひ覚えてください。 トップページ 絵で覚える日本史単語帳 絵で覚える日本史単語帳の索引 日本史テーマ別 twitter始めました。

次の