江戸 時代 吉原。 江戸時代の吉原で花魁になれる女子の条件 容姿などで判断

【江戸の吉原にも「デリヘル」制度があったのをご存知か。】

江戸 時代 吉原

もくじ• 町人(ちょうにん)が経済力を付けたことで、岡場所・宿場が人気に 岡場所や宿場の人気が高まったのは「 町人(ちょうにん)の経済力が徐々に高まったこと」が理由でした。 江戸時代に経済力があったのは、武士や商人、大名(だいみょう)でした。 大名は各地に存在した藩(はん)と呼ばれる小さな国の政治を行っていた人物です。 岡場所や宿場では、吉原の伝統や格式にもとづいた決まり事がなく、遊女(ゆうじょ:現代でいう風俗嬢)と自由に遊ぶことができました。 吉原の風俗店である妓楼(ぎろう)には、「ひとつの妓楼を利用すると、ほかの妓楼を利用してはいけない」、「遊女と夜を共にするためには、その前に3回は通う必要がある」などのルールがありました。 一方で岡場所や宿場は揚代(あげだい:遊女と遊ぶ料金)も安く、すぐに遊女と性的行為を行えることから人気が出たのです。 町人が力を付ける一方で、大名や武士は藩の財政が悪くなることで収入が減り、吉原を利用するのが難しくなりました。 その結果、安上がりな岡場所や宿場を利用する人が増えていきました。 吉原が大衆化路線を取った 岡場所や宿場の人気が高まり始めたことで、吉原の妓楼の多くは経営が成り立たなくなりました。 文化八年(1811年)ごろの吉原は不景気で、有名な妓楼が倒産することもあったほどです。 そこで、それまでの伝統や格式に従った経営を変え、 大衆化路線に切り替えたのです。 妓楼は引手茶屋(ひきてぢゃや)という「現代でいう風俗案内所」を通して訪れる男性客を優遇しました。 男性客は引手茶屋でお金の清算をするため、妓楼はまとめて引手茶屋に代金を請求すればよかったためです。 しかし、男性客は引手茶屋を利用することで、妓楼の揚代(風俗店の利用料)とは別途料金が発生することになりました。 そこで吉原の妓楼は大衆化路線に切り替えるにあたり、この仕組みを廃止しました。 さらに、「ひとつの妓楼を利用したら、ほかの妓楼を利用できない」というルールも廃止しました。 それまでは、ほかの妓楼を利用した男性客には不実(ふじつ:誠実さが足りない)として「お仕置き」がありました。 お仕置きでは妓楼で男性客が桶をかぶせられ、遊女たちに髪を切られたり、墨を塗られたりしました。 吉原ならではのルールでしたが、岡場所や宿場に対抗するため、こうしたお仕置きの制度を廃止しました。 このようにして、かつての伝統と格式のあった吉原では徐々に大衆化が進みました。 ただ、こうした衰えはありましたが、吉原は依然としてほかの遊里(ゆうり:風俗店が集まっている場所)とは 別格の魅力を保ち続けていました。 営業の仕方に変更を加えたとはいえ吉原の伝統は受け継がれており、男性は吉原に憧れていたのです。 岡場所の取り締まりで吉原にも打撃があった 徐々に力が衰えていった吉原にとって、 商売敵は岡場所でした。 そのため吉原は、政府に「岡場所の取り締まり」を要請しました。 岡場所は違法に営業されていたため、取り締まりにより営業を停止させることができたのです。 町奉行所は最初のうちは吉原の要請を無視していました。 しかし、天明七年(1787年)に行われた「寛政の改革(かんせいのかいかく)」、天保十二年(1841年)の「天保の改革(てんぽうのかいかく)」という政治改革では、岡場所を徹底的に取り締まりました。 岡場所にいた遊女は仕事ができなくなり、結果として吉原に行き着くことになります。 しかし、結果として 岡場所から来た遊女が吉原の力をさらに弱めてしまいました。 岡場所の遊女は「吉原の妓楼のしきたり」を知りません。 吉原の遊女は長年に渡り見習いとして妓楼で修行を行い、遊女になってからも教養の勉強をしていました。 そのため、岡場所の遊女とは歴然とした差があったのです。 多くの岡場所の女性が吉原に入ることで、吉原の遊女の質が低下してしまいました。 そして男性客は、吉原からさらに離れるようになりました。 このようにして、吉原は徐々に衰退していきました。 江戸時代が終わりを告げるころには、吉原は衰退した状態で明治時代(1868~1912年)を迎えることになりました。 明治時代の吉原 江戸時代に始まった吉原はかつてに比べて衰退したとはいっても、その人気は 明治時代に入っても続きました。 ただ、明治時代に入ってからは、それまで妓楼(ぎろう)と呼ばれていた風俗店は「 貸座敷(かしざしき)」と名称を変えて営業されました。 貸座敷での遊女(ゆうじょ:風俗嬢のこと)の生活は、江戸時代の生活と変わらないものでした。 遊女は店に借金を負っており、その返済のために仕事をしていました。 そのため自由に休みを取ることができず、日々男性客とセックスを行っていました。 1903年からは貸座敷で「写真指名」のシステムが新しく始まりました。 当時は「 写真見世(しゃしんみせ)」と呼ばれ、 男性客は遊女の写真を見て性行為(セックス)の相手を選ぶことができました。 これは現代の風俗店で行われている、「壁に貼ってある写真やアルバムを見て女性を指名すること」と似ているといえます。 写真見世が始まるまでは、貸座敷では「張見世(はりみせ)」というシステムがありました。 貸座敷の道路に面した部屋は、壁が格子になっていました。 この部屋のことを張見世といい、遊女が待機する部屋となっていました。 道行く男性客は格子から張見世をのぞいて、好みの遊女を選んでいたのです。 写真見世は貸座敷で広く普及するようになり、1916年(大正5年)には張見世が禁止されるようになりました。 このように吉原のにぎわいは明治時代も変わらず続き、「日本最大級の遊郭」と称されました。 火災や戦争での空襲により、吉原は衰退の時期へ 1900年代に入ると、それまで活況となっていた吉原の状況が変化し始めました。 吉原ではときどき火事が起こっていましたが、1911年(明治44年)には「 吉原大火(よしわらたいか)」という大規模な火災が発生しました。 これにより吉原にあった建物のうち約6,500戸が焼失し、吉原は大きな損害を受けました。 さらに1923年(大正12年)には、関東周辺を襲った大規模な地震である「 関東大震災」が発生しました。 吉原大火から復興した吉原でしたが、今度は地震に見舞われたのです。 そしてその後に起きたのが「 第二次世界大戦」です。 1939年から1945年にわたって行われた戦争で、日本の中心都市であった東京には何度も空襲がありました。 大戦の末期の東京では、のちに「東京大空襲」と呼ばれるようになった大規模な空襲に見舞われました。 吉原も東京大空襲によって大きな打撃を受け、ほぼ壊滅状態となってしまいました。 しかし吉原は、江戸時代から続く歴史ある遊郭(ゆうかく:風俗街のこと)でした。 そのため吉原を必要とする人は多く、戦後にいち早く復興が行われ、再度貸座敷が営業されるようになりました。 戦後は赤線時代を経て、ソープ街に 戦後の吉原は、政府が売春を許可する地域である「 赤線地帯」とされました。 このころの風俗店は貸座敷ではなく、「特殊飲食店」として営業されました。 そして1958年(昭和33年)には、売春防止法という「風俗店での売春を禁止する法律」が施行されました。 この法律によって赤線地帯の風俗店での売春も禁止されることになり、吉原の特殊飲食店も閉店に追い込まれました。 廃業した吉原の風俗店は、現代のラブホテルの前身(ぜんしん:前の形態)にあたる「連れ込み宿」という宿に転業する店がありました。 さらに、1951年(昭和26年)から東京で人気が出始めていた、ソープランドの前身にあたる「トルコ風呂」として再開する店もありました。 とくにトルコ風呂は当時、日本全国で人気が出始めていました。 こうした状況から、吉原にはトルコ風呂が増えるようになりました。 現在のソープランドでは、男性客は女性とセックスを行うことができます。 しかしこのころのトルコ風呂では、本番行為(セックス)は行われていませんでした。 「ミストルコ」と呼ばれる店の女性が、サウナに入った男性の体を拭くのが主なサービスでした。 1960年代に入るとトルコ風呂は全盛期を迎えました。 吉原のトルコ風呂も男性客から大人気となり、吉原は江戸時代のようなにぎわいを取り戻しました。 そして、「 吉原といえばトルコ風呂」のイメージが定着するようになりました。 このころはトルコ風呂でのプレイ内容が過激化し、ミストルコが男性器をマッサージする「スペシャルサービス」というサービスが登場しました。 さらに1964年(昭和39年)には「東京オリンピック」が開催されました。 オリンピックで東京に来る観光客をターゲットとして、吉原のトルコ風呂の店舗数は急激に増えました。 ただ、東京オリンピックの開催期間中は、政府によるトルコ風呂に対する監視も強くなりました。 政府は「トルコ風呂が売春を行っていないか」を厳しく確認していました。 そのため、このころの吉原のトルコ風呂では、スペシャルサービスは提供されませんでした。 1960年代後半になると、警察によるトルコ風呂に対する監視は緩くなり、セックスをサービスとして提供するトルコ風呂が登場しました。 風俗店での本番行為(セックス)は法律によって禁止されていましたが、「店の女性と男性客が自由恋愛に発展した」という建前で、サービスが提供されていました。 こうして吉原でも本番サービスを提供するトルコ風呂が登場し、急速に広まりました。 また、1984年にはトルコ人留学生による訴えから、トルコ風呂から現代の「ソープランド」への改称が行われました。 これによって吉原のトルコ風呂も、全てソープランドに改められました。 さらに翌年の1985年には、「風俗営業取締法」の改正があり、現代の「風営法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)」が施行されました。 新しくできた風営法よって、ソープランドは営業地域や営業時間に厳しい規制が設けられることになりました。 そして全国各地のソープランドの中には、営業できなくなる店が発生しました。 しかし吉原のソープランドは営業を続けることができました。 それは、「東京都が条例を定めたため」でした。 東京都は「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律施行条例」という条例を取り決め、 吉原を「特例地域」と認めてソープランドの営業を許可したのです。 こうして吉原のソープランドは営業を続けることが許され、現在に至るまでその人気を保ち続けてきました。 現在ではソープランドが数多く建ち並ぶ「 全国の中でも屈指のソープ街」となっています。 吉原は閑静な住宅街にある 現在の吉原周辺は閑静な住宅街となっています。 江戸時代の吉原は「江戸のテーマパーク」と呼ばれるほどにぎわっていた街でした。 しかし現在はその面影はなく、非常に静かな場所にあります。 吉原以外の東京で人気がある風俗街に「歌舞伎町」があります。 歌舞伎町は新宿駅から近いところにあり、多くの人でにぎわっています。 吉原は歌舞伎町とは対称的な雰囲気となっています。 また、飲食店やコンビニも非常に少なくなっています。 吉原の最寄り駅周辺には飲食店があります。 ただ、吉原の内部には「ソープランドだけしかない」といえるほど、ほかの店がありません。 男性客が吉原のソープランドを利用するときには、待ち時間がある場合があります。 早めに到着したときに休憩する店を見つけようと思っても難しいため、気をつける必要があります。 このような周りに店が少ない環境は、吉原のソープランドで働く女性にとっても不便です。 休憩時間に食事を取ったり、カフェで休憩をしたりしようと思っても、飲食店がないためできないのです。 吉原へのアクセスは不便 日本には数多くの風俗街がありますが、吉原は「日本屈指の遊郭」として全国に知られています。 しかしその知名度とは裏原に、 吉原へのアクセスは不便です。 吉原は「東京都台東区千束3丁目と4丁目」にあります。 最寄り駅は三ノ輪駅(地下鉄日比谷線)、鶯谷駅(JR)、浅草駅(都営浅草線、東京メトロ銀座線、東武伊勢崎線)です。 ただ、これらのどの駅からも徒歩で15~20分かかる場所に位置しています。 また、鶯谷駅は最寄り駅ではあるものの、吉原に向かう道は複雑です。 吉原の風俗街で遊ぶ男性客の多くは、タクシーや風俗店から出る送迎車を利用して吉原に向かいます。 タクシー料金は各駅から1,000円ほどとなっています。 また、前述の通り風俗店によっては駅から無料で送迎をしてくれることがあります。 現在、「吉原」という名称は地図に残っていません。 しかし、現地には吉原の名前がついた建造物が残されています。 吉原のソープ街の入り口のひとつは「吉原大門(よしわらおおもん)」という交差点の近くにあります。 また、吉原神社や吉原弁財天という神社も吉原の名を残して存在しています。 さらに、吉原内部の道路は「仲の町(なかのちょう)」、「江戸一(えどいち)」、「江戸二(えどに)」など、江戸時代の道路の名称がそのまま残っています。 「吉原」という名称は地図には残っていないものの、至る所で名前が残されています。 そして、古くからの歴史を感じることができるのです。 風俗店にも江戸時代からルールが残っている 江戸時代における吉原は「伝統と格式を重んじる遊郭」でした。 現在の吉原のソープランドでも、こうした伝統の一部分が受け継がれています。 江戸時代の吉原では、風俗店は妓楼(ぎろう)、風俗嬢は遊女(ゆうじょ)と呼ばれました。 遊女は妓楼に借金をしており、借金返済のために働いていました。 遊女は店から部屋が提供され、布団や男性客に出すお茶なども与えられました。 しかし、こうした物品の費用は女性の給料から差し引かれました。 現代の吉原のソープランドは、「ソープ嬢は個人事業主で、店の部屋を借りて営業している」という体制となっています。 そのため店の電気代やガス代などの共益費、男性客とのプレイで使うローションなどの費用は 「経費」としてソープ嬢が負担する場合があります。 これは江戸時代からのルールの名残といえます。 また、かつての吉原の遊女には「 階級」がありました。 遊女は上級と下級に分かれており、上級遊女は優遇されていました。 現代の吉原のソープランドでも、ソープ嬢が待機する「待合室」で、女性の座る場所が決まっている店があります。 こうした店では、指名が多い女性が待合室の良い位置に座れるようになっています。 これも、江戸時代の遊女の階級制度の名残といえます。 このように、現代の吉原は江戸時代のにぎやかさとは異なる閑静な街となっています。 ただ、道路の名称や風俗店のルールなど、江戸時代から残っている部分もあるのです。

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江戸時代の吉原で花魁になれる女子の条件 容姿などで判断

江戸 時代 吉原

江戸時代の女性は「処女であること」がステータスにはなりませんでした。 むしろたくさんの異性と関係をもって、男のことを熟知しておきなさいというくらいの文化・風潮もあったといいます。 そして、デートとセックスはほぼイコールだったのです。 女性が男性の声かけをOKすれば、性行為も了承したようなものです。 当時の女性たちは現代女性よりずっと積極的で、デートも性交渉も、基本的に主導権を握っていたのは男性でなく女性。 気に入った男性を押し倒すようなことも当たり前でしたし、女性が拒否すれば男性側はおとなしく諦めなくてはなりませんでした。 ちなみにこのような性事情は江戸時代になって始まったことではありません。 戦国時代頃からずっと日本に存在していた考え方です。 一般庶民が暮らした住まいといえば長屋ですが、長屋の壁は薄くて声などがセックスの際の声や音が筒抜けだったといいます。 もちろんそうなれば性生活も大変、かと思いきや、隣や外に声が漏れてしまったり誰かに覗かれたりしても、別に平気な夫婦が多かったのです。 その傾向は主に結婚してそれなりの年月が経った夫婦によくみられました。 まだ若い新婚夫婦だとさすがに他人の目があるのは少し恥ずかしかったようですが、隣から聞こえた声に触発されて我慢できずに始めてしまうのは日常茶飯事でした。 江戸時代には「不倫は死刑、不倫された側は、配偶者や不倫相手を殺めてしまっても不問」というような厳しい法(不義密通)があったにもかかわらず、不倫自体が当たり前のように行われていました。 女性が案外気楽に暮らしていた江戸時代ですが、女性の働き口はほとんどなく、今でいう専業主婦が大多数。 そして今ほど家事も忙しくはなかったそうで、暇を持て余していたわけですね。 なので旦那の留守中にそのへんを歩いている男を引っ張り込んだり、ナンパについていったり、なんていうこともよく起きていました。 そして旦那の方はそれが分かっていても、好きで結婚した妻が罪に問われるのは嫌で、知らないふりで夫婦生活を続けるパターンが多かったのです。 江戸時代の性文化その1は、夜這い文化です。 江戸時代から近代まで長く続いた代表的なもので、もちろんこれは双方の合意をもって行われるものであり、女性側が「今夜行く」ということを事前に知らされている場合もありました。 夜這いというとなんとなく無理やりなイメージがありますが、決してそうではなかったのです。 ですので当然、女性には拒否権がありました。 今と同じように、女性の意思を無視して強引に迫ると罰せられたり、集落内で村八分にあったりしました。 周りにいる他の人間が目を光らせて、ろくでもない男から女性を守ってくれていたのです。 きちんとした夜這いのシステムは若い男性への性指南や、未婚率の低下に役立ったともいわれています。 例えば年上の女性に手ほどきを受けつつ自信をつけ、好きな女性との交際や行為に備えたりしたのですね。 江戸時代の性文化その5は、野外での行為も当たり前だったということです。 現代と違って、ラブホテルなども気軽に行けない時代。 住まいは壁の薄い長屋だったり実家だったりとさまざまな事情から場所が限られていたため、ナンパやデートの途中で手っ取り早く物陰や畑の草むらの中で行為に及ぶ男女は比較的多かったのです。 前述したように着衣でのスピーディーな行為がほとんどだった時代ですので、もし誰かに見つかっても着物で隠してしまえばいいですし、そもそもこれが当たり前の文化なのでそこまで恥ずかしくはなかったのかもしれません。 江戸時代の一般庶民が「ちょっと奮発して」遊べる性風俗のお店で、切見世(きりみせ)とも呼ばれていました。 これは吉原の端に存在した女郎屋の一種なのですが、つくりは長屋形式で時間制、庶民でも手が出せないことはないお店なので、女郎屋としては最下級のものになります。 ひどい店だと土間に薄い藁を敷いただけの部屋で、一日何人もの客を相手にしていたといいます。 年増や病気持ちなど、ちょっと事情のある女性もたくさんいたそうですが、それでも高級店と違って手軽に遊べるというので、それなりに繁盛していました。 夜道で男性に声をかけて売春を行っていた女性たちで、もともと局見世などに所属した下級女郎が落ちることが多く、夜鷹が受け取る金額は数百円程度と、とても安いものでした。 年齢は10代~70代ほどとかなり幅広く、道端の茂みなどでござを敷くなどして性交渉をしていたようです。 性病リスクもかなり高かったのですが、やはり需要はゼロではありません。 彼女たちは吉原に限らず、全国各地にいました。 他にも船饅頭(ふなまんじゅう)という、川舟が岸から岸に渡るまでの間に事を済ませる、といったスタイルの夜鷹もいました。 こちらも吉原近辺だけではなく、江戸の海辺などあちこちにいたといいます。 女性に働き口がなかった時代、いくら性に奔放とはいっても、生活のために体を売るのは楽ではなかったでしょう。 簡単にいうとラブホテルに近いものであり、本来客をとってはいけない芸者や、その他妓楼関係者の男性たちが、人目を忍んでこっそり遊女と密会するために利用されていた場所です。 そんな使われ方に似合わず、裏茶屋の造りはなかなか洒落ていたといいます。 江戸時代の性文化は驚きがいっぱい! 現代の感覚では信じられないほど、性に関して奔放だった江戸時代。 知れば知るほど驚きに満ちています。 あまり褒められた文化ではないのでしょうが、当時の人々はそれを当たり前の娯楽にして、日々の生活を思いっきり楽しんでいたのかもしれませんね。 ちょっと好奇心で覗いてみたくなる、そんな江戸時代の性文化でした。

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花柳界の歴史(江戸時代~幕末) | 東京花柳界情報舎

江戸 時代 吉原

表向きは幕府も人身売買を禁じていたため、「遊女は妓楼で働く奉公人」ということになっていましたが、それはあくまで建前。 江戸市中の場合は女衒を使わず直接、妓楼に親らが娘を売ることもありました。 (『成形図説』より/白尾国柱ら 著) の農村のようす。 江戸から遠い農村・漁村の場合、女衒が家々を周って少女たちを買ったそう 身売りされる年齢と金額はどれくらいだったかといいますと、 幼女の場合は7~8歳(時には5~6歳)、もう少し大きくても10代前後の少女だったそう。 金額に関しては、出自によりピンキリだったようですが、農村部での場合、 3~5両(現在のおよそ30~50万円)で幼女を女衒が買ったという記録があります。 下級武士の場合だと 18両(およそ180万円)で娘が買われたという記録も。 いずれにせよ、現代人からみると理解しがたい話ですが、当時の事情は知るよしもなく、安易には批判できません。 彼女たちは「吉原へ行けば毎日白いおまんまが食べられるし、きれいな着物が着られるよ」と女衒に言われたり、「これも親孝行だと思って堪忍しておくれ……」と親たちに言われたりしながら、泣く泣く吉原へと売られていきました。 吉原へ売られてくる女性のなかには、すでに遊女として働いていた玄人(プロ)の女性たちもいました。 前述したように、吉原は幕府公認の遊郭です。 でも江戸には吉原以外にも「岡場所」と呼ばれた売春エリアがあり、幕府非公認つまり非合法の遊女(私娼)が色を売っていました。 (『吾妻源氏 辰美の秋月』 画) 有名な岡場所のひとつ深川。 しかし、実際には色を売る遊女も 岡場所は非公認なわけですから、幕府は何度も私娼の取締りを行っており、その際に 摘発された私娼たちがセリにかけられ吉原の妓楼へ売り渡されたのです。 彼女たちは「奴女郎(やっこじょろう)」と呼ばれ吉原の遊女のなかでも軽蔑されたそうですが、なかにはトップクラスの遊女に昇りつめる女性もいました。 (『古今名婦鏡』「遊女勝山」安達吟光 画) その名も 勝山(かつやま)。 勝山は初期の吉原で絶大な人気を誇った遊女で、彼女の考案した髪型は「勝山髷(かつやままげ)」と呼ばれ大流行しました。 この勝山も、吉原の遊女になる前はで、私娼摘発により吉原へ連れてこられたのですが、美貌と才覚をもって破格の出世を成し遂げたのです。

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