米長邦雄 真野あずさ。 追悼の森/米長邦雄さん死去

眞野あずさの旦那は?娘は?米長邦雄と不倫していた?

米長邦雄 真野あずさ

昨日の王座戦第4局で中村太地六段が羽生善治王座に勝ち、3勝1敗で王座を獲得した。 今日は、31年前、23歳の中村修王将が誕生した時のこと。 将棋世界1986年5月号、毎日新聞の加古明光さんの「第35期王将戦終わる 中村新王将誕生! -ヤングパワーの台頭-」より。 騒然とする控え室。 色めき立つ関係者。 それでも午後6時からの夕食休憩には入るだろうと誰もが思っていた。 夕食も注文してある。 それが午後5時40分、中原の投了となる。 我先にと対局室に駆けつける報道陣。 夜のローカル番組で流そうとしていたNHKも「中村勝ち」も報に雪の中を急きょ、甲府から来るという。 降り続く雪と対照的に、室内は熱気に包まれた。 「3連勝後の2連敗でちょっと焦りました。 数多く教えてもらうつもりでシリーズに臨みましたが、予想外の展開となって早く終わりたいと思っていた。 この言葉が出てくるまで、かなりの時間がかかった。 その間、じっと盤上を見続ける中原。 通算7期、前年米長から奪った王将を1年で手放す心境は、複雑だったに違いない。 「やはり3連敗をくつがえすのは大変なことですね」。 ちょうど3年前、谷川が当時の加藤一二三名人から名人を奪ったのと全く同じ展開で23歳の中村が新王将の座に就いた。 (以下略) ————— 将棋世界1986年5月号、中村修王将(当時)の第35期王将戦〔中原誠王将-中村修六段〕第6局自戦記「三度目の正直」より。 一昨年米長棋聖に初挑戦して以来、これでタイトル戦は三度目。 過去二回は何れも米長棋聖の前に2勝3敗、0勝3敗と涙を飲んでいる。 そして今回は中原名人である。 ストレートで負かされるとは考えなかったものの、少しでも番数多く指す事が正直な希望であった。 王将戦に挑戦した直後、ある友達が「今からでも頑張るなら棋聖戦(当時2連敗)の方がチャンスがある」と言ったが、私もそうかなという気がしていた。 (米長先生ゴメンナサイ) それだけ中原先生には威圧感があり、番勝負には絶対という空気があった。 今回の結果は奇跡という他はないが、たまたまめぐり合わせが良かっただけだと思っている。 次に教えていただく時に手合違いで負かされないよう少しでも近づければと今はそう思っている。 元名人 升田幸三 中村が王将を取ったと言われても、私は会ったこともないし、将棋も見たことがないので分からん。 だから何も感じんね。 ただね、私のような第三者から見ると、今はタイトルが増えて、タイトル持っとるもんには忙しすぎるんじゃないか。 あとこれは想像ですが、対局料が安いんとちがうか。 対局料が安けりゃ、力は入りませんよ。 十段・棋聖 米長邦雄 中村君が勝っても、不思議ではないんじゃないか。 どちらが勝っても、格が違うとか力が違うとか、そういうことではなく、二人が戦ったら片方が4-2で勝ったということでね。 棋聖戦では3-0で私が勝ったが、あの時でも3局目勝たなければ、逆転負けかとの気持ちがあった。 それはともかく中村新王将は松本伊代ちゃんのファンとか。 王将就位式では、ぜひ伊代ちゃんとのブチュッを見せてくれるよう希望する。 (中略) 七段 佐伯昌優 まずおめでとうと言いたいですね。 暮れに忘年会を家でした時、中原さんが相手だが頑張って取って欲しいと言ったんです。 しかし、正直言って、ひどい負け方だけはしないが、勝てるとは思っていませんでした。 だから本人が一番びっくりしているんじゃないかな。 七番勝負では本当によく頑張ったと思います。 内容もよかったし、これからは健康に気をつけて、王将らしい将棋を指して欲しいですね。 それから順位戦の方もね(笑)。 (以下略) ————— 時代は常にニューヒーローを歓迎する。 23歳の中村修王将誕生の時も、週刊プレイボーイなど一般誌が記事を掲載している。 中村修王将は、翌期も中原誠名人の挑戦を退け、防衛を果たしている。 ————— 升田幸三実力制第四代名人の談話が大胆だ。 というか、これが升田流の通常モードでもある。 まだ実力制第四代名人の呼称が決まっていなかった頃なので、元名人となっている。 ————— 中村修王将の師匠の佐伯昌優七段(当時)の談話も、師匠らしい愛情に溢れている。 「それから順位戦の方もね」も師匠ならではの言葉。 ————— 米長邦雄二冠(当時)の「王将就位式では、ぜひ伊代ちゃんとのブチュッを見せてくれるよう希望する」は、あまりにも唐突な感じがするが、実は、将棋世界の同じ号に次のような写真が掲載されている。 米長棋聖就位式で、お祝いに駆けつけた女優の眞野あずささんが、ブチュッ。 ————— 米長邦雄永世棋聖は、天国から、弟子である中村太地新王座に、どのようなお祝いの言葉をかけているだろう。 やはり、米長流で「王座就位式では、ぜひブチュッを見せてくれるよう希望する」の一言も、最後に忘れずに入れているような感じがする。

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米長邦雄

米長邦雄 真野あずさ

2017年3月5日現在 米長 邦雄(よねなが くにお、(昭和18年) - (平成24年) )は、。 タイトル獲得数19期は。 の称号を保持し、引退前から名乗る。 名誉九段門下。 は85。 趣味はで囲碁八段(から追贈)。 2003年(平成15年)12月、引退。 会長(2005年(平成17年) - 2012年(平成24年))。 2003年(平成15年)11月、受章。 2013年(平成25年)1月、受章(没後叙勲)。 特任教授 (2011年(平成23年)10月1日 - 2012年(平成24年)9月30日 )。 評議員(2011年(平成23年)4月 - 2012年(平成24年)12月)。 財団法人評議員(本来の任期満了予定日は2013年(平成25年)3月31日 であったが、死去により死去日をもって自動的に退任した)。 番組審議会委員。 番組審議会委員。 (1999年(平成11年)12月 - 2007年(平成19年)12月)などを歴任。 (現・)出身。 、卒業。 4年次3月(年度末)退学。 人物 [ ] 山梨県増穂村(現在の富士川町)の米長家は元々地主の家系であったが、後の農地解放により土地を失った。 「将棋を覚えたのは弟が小学生に上がるころで、四人兄弟が二組に分かれ、暇さえあれば将棋を指していました。 しばらくすると三男が四男の邦雄に負け、さらに二男の私も勝てなくなりました。 」と次兄の修が語っている。 小学校3年の頃、周囲の大人達を負かすようになる。 小学校6年の頃、師匠となる佐瀬勇次が米長の生家を訪れて、プロ将棋界へ進むことを勧めた。 そのとき佐瀬が両親に言った言葉は、「息子さん(米長)は名人になれるかわからないが、八段にはなれます」であったという。 「小学六年の時、山梨県の将棋大会で初段以下の部で優勝しました。 翌日佐瀬七段というプロと、アマ有力者が我が家に来て、この子は将棋の才能が素晴らしい、中学になるとき内弟子になってプロを目指してもらいたい、経済的には一切面倒を見ると言われました。 両親は将棋界の知識はありませんでしたが、最後の一言が決め手になり承諾しました。 つまり、弟が将棋の世界に入ったのは口減らしのためだったのです。 」とは次兄の修の談。 3人の兄はに進んだ。 そのうちの長兄である泰は、全日本学生名人戦で優勝を果たすなどアマチュア強豪として知られ、教授として都市工学を専門とし、将棋の棋風分析の一人者として知られ、「米長伊甫」名義の著書もある。 「兄達は頭が悪いから東大へ行った。 自分は頭が良いから将棋指しになった」という言葉は有名である。 ただし、実際に米長自身が発言したのかどうかははっきりしていない。 (平成21年)1月9日にでを受けていると発表し、自身のホームページ「米長邦雄の家」の「癌ノート」に詳細を連載した。 (平成24年)午前7時18分、で死去。 戒名は、棋聖院純実日邦居士(きせいいんじゅんじつにっぽうこじ)。 「人生すべて感謝である」のブログ更新は、自身最期の更新である。 元のは甥。 弟子 [ ] 棋士になった弟子は、、、、、、 の7名。 他に、元・の。 先崎と林葉はであった。 交友 [ ] とはウマが合い、「麦長君」とよばれて親しまれた。 また、、とも親しい関係で、とも自称親友の間柄という。 趣味の一つにがあり、『碁敵が泣いて口惜しがる本』という著書もある。 囲碁界の無頼派の棋士・を尊敬して、兄事している。 大の将棋ファンであったは米長のことを親しみを込めというあだ名をつけた。 1993年(平成5年)の名人位獲得には、若手とともに研究を行ったことが大きな要因であったとされる。 米長は徹底的に自分の序盤戦術を洗い直す作業に取り掛かる。 名人戦では対局の合間に、当時が主宰して、、、で構成された伝説の研究会「島研」に顔を出した。 また、1980年(昭和55年)から1990年代にかけて数十人の若手棋士が参加した「中原研究会」に対抗して、数年前から自宅を改造して若手棋士を集めて開いていた研究会「米長道場」で、徹底的に対中原名人戦の研究を重ねた。 特に道場の師範代格で、当時序盤研究の第一人者だったから、大きな示唆をもらったという。 なお、米長道場は「若手に教えを請う」という姿勢で運営しており、米長は森下卓のことを「先生」と呼んでいた。 また佐藤康光に対する評価も高く、あるアンケートでの「無人島に1年間住むとしたら、何を持って行くか(2つ)」という質問に対し「美人とグロンサン」と回答している(「グロンサン」は当時の佐藤のあだ名)。 とゲームのに関してで争った。 裁判は米長が武者野に対し金を支払うことで解決。 ただし、米長は自身のサイトで「和解金」ではなく「解決金」と書いた。 思想 [ ] 「自分にとってはだが相手にとって重要な対局であれば、相手を全力で負かす」という理念を持ち、将棋界では「米長哲学(米長理論)」と呼ばれる。 著書『人間における勝負の研究』では、「何年間かのツキを呼び込む大きな対局であり、名人戦より必死にやるべき対局」と表現している。 第24期(1969年度)は、中原誠と同時にB級1組に昇級して迎えた。 A級昇級争いは、12回戦まで終了した残り1局の時点で、内藤國雄が11勝1敗で昇級が決まり、もう1人の昇級枠を58歳のと22歳の中原誠が、ともに9勝3敗で争っていた(順位が上の大野のほうが中原より有利)。 そして、大野にとって「勝てば昇級」の最終13回戦の相手は米長であった。 その米長自身は7勝5敗で昇級にも降級にも絡んでいなかった。 ところが、その一局で米長は、通常タイトル戦でしか着用しない羽織袴の姿で大野の前に現れ、手加減しない姿勢をあらわにした。 結果は、米長と中原がともに勝ったことにより大野はA級復帰を逃し、中原は米長のアシストによりA級に昇級した。 なお、米長がA級昇級を果たしたのは翌年であったが、これについて前記の著書の中で、前年のことがあったからこそ昇級できたとの考えを述べている(精神面もさることながら、その年上がれなくとも翌年の昇級争いの最有力候補になる中原がB1リーグ戦から消えていたことは米長の昇級に有利になった)。 著書『米長の勝負術』では、などの例外を除き、その対局の結果が第三者に影響を及ぼす勝負の場合、自身の勝負に勝とうが負けようが第三者の悲喜の総量は変わらないが、それが故に結局は自身が全力を尽くしたかどうかだけが残り、手を抜いてしまっては純粋に、自身にとってマイナスであるとしている。 この「米長哲学」は将棋界全体に広く普及し、などの問題の際に新聞などで引用されることもある。 一時期株取引に熱中し、『米長流株に勝つ極意』という本を出すほどだった。 また、委員だった時は、のに対する「・」の義務化に尽力した。 その後2004年のに招待された際、天皇に対し「日本中の学校において国旗を掲げ国歌を斉唱させることが、私の仕事でございます」と発言したところ、陛下から「強制になるということでないことが望ましいですね」と返され、「そう、もちろんそうでございます。 素晴らしいお言葉ありがとうございます」と礼を言った。 詳細は「」を参照 の『』執筆者に名を連ねるの言論人だが、政治的な意見を別として将棋・囲碁への貢献から「政党で真っ先にいちばん感謝しなければならないのは」と設立総会で発言している (は若手の登竜門である「」を、将棋では1970年以来、囲碁では1976年以来、主催している)。 名解説 [ ] 米長は対局解説がわかりやすいことで有名であった。 会長として [ ] 2003年(平成15年)、中原誠が会長になったのを受けて、の専務理事に就任。 そして、(平成17年) 中原誠の後を受け、日本将棋連盟会長に就任。 のとによる共催実現、のプロ入り試験実現、(LPSA)の独立問題への対応など、個々の事例については批判もあるが、一定の実績を残している。 詳細は「」および「」を参照 また、将棋連盟の赤字体質改善のため、多くのリストラを行ったが、関西本部にあった「」を2006年(平成18年)に閉鎖し、収蔵品をアミューズメント産業研究所に譲渡したことについては十四世名人の娘などから批判を受けた。 将棋連盟会長となって以降も、自身のサイトからの情報発信に加え、前述の『正論』や・の連載コラム「セブンデイズ」など個人の立場での寄稿を継続している。 日本将棋連盟のホームページでは笑顔でWピースの写真を役員紹介の写真に採用している。 お色気 [ ] 「『させてくれ』と女にお願いしているうちは半人前である」「鍛練して『してください』と頼まれるようにならなければいけない。 なおかつ、そのお願いに充分に応えられなくてはならない」 と述べている。 42歳のときには、写真週刊誌ででのヌード写真を掲載した。 平成10年版『将棋年鑑』(1998年)の棋士アンケートにおいて、「あなたのストレス解消法は」の質問に「口に出すわけにはいかない」と答え、「可能ならばやってみたいスポーツは」という質問には「」と答えている。 2004 - 2005年に、の携帯サイトで「米長邦雄のさわやかイロザンゲ」というタイトルのエッセイを週1回で連載した。 内容は、モテる秘訣、自身の過去についての赤裸々な告白、読者からの人生相談などであった。 妻帯者であったが自他共に認める性豪として知られた。 前立腺癌を宣告された後、全摘手術を躊躇したことが結果として転移に繋がった。 その心の機微が闘病記である著書「癌ノート~米長流 前立腺癌への最善手~」に記されている。 一番弟子の伊藤能が三段リーグで不振に陥っていた頃に発した言葉が、「最近、お前はだらけている。 目がな、目が死んでいるんだ!(中略)を見るような目で、将棋盤を見ろ!! 」である。 これが伊藤の闘志に火をつけ、三段リーグを2位で卒業し、四段昇段を果たした。 ボンクラーズとの対局 [ ] 「米長邦雄永世棋聖vs プロ棋士対コンピュータ将棋電王戦」と称してソフトと2012年(平成24年)1月14日に対戦することが、2011年(平成23年)10月6日に発表された。 詳細は「」および「」を参照 また、『われ敗れたり』は、第24回将棋ペンクラブ大賞 文芸部門 を受賞。 戦績 [ ] 肩書、タイトルはいずれも当時。 プロ入りしたのは1963年(昭和38年)で、ちょうど大山康晴が五冠独占を続けていた時代に当たる。 A級昇級は(昭和46年)、初は(昭和48年)の第22期で、それぞれ数え年で28歳、30歳の時と、超一流と呼ばれる棋士の中では出世は遅い方であった。 1970年(昭和45年)、で大山康晴に挑戦。 これがタイトル初挑戦である。 これを含め、大山とのタイトル戦で4連続奪取失敗をする。 大山からの初奪取は、1983年(昭和58年)(1982年度)の、での2連続奪取(は防衛)である。 1973年(昭和48年)、第22期でを破り、初のタイトル獲得。 最終局の終盤、劣勢の中でトン死の筋(金を取りながら詰めろ馬取り)で大逆転。 米長曰く「対局相手の有吉さんは、トン死の筋に気づいた時30センチくらい飛び上がった」という。 中原誠は、大山以上の天敵であった。 1973年度のに始まり、タイトル戦でなかなか中原に勝てなかった。 2年連続で中原王将への挑戦者となった(昭和50年)(1974年度)の第24期王将戦では、七番勝負開幕前のインタビューで「第一局では中原王将(当時)があっと驚く奇策を考えている」と発言。 角頭歩戦法の肝とも言える角交換を封じられた米長はいいところなく敗れ、以後角頭歩戦法を公式戦で用いる事はなかった。 一方の七番勝負も3勝4敗と、第一局での敗戦が最後まで影響する結果となった。 ちなみに中原誠は、この時の七番勝負第七局(最終局)を「米長さんとの最も印象に残っている一局」として挙げている。 中原誠曰く「タイトル戦七番勝負の第七局で、双方残り一分の秒読みになったのは、後にも先にもこの時以外記憶にない」からである。 中原への8度目の挑戦となった1979年度王位戦はフルセットの戦いとなり、最終局での千日手指し直しの戦いの末に奪取。 ようやく中原に一矢を報いた。 1984年度、中原誠と七番勝負を戦う。 フルセットで迎えた最終局(1月)に勝利し奪取。 史上3人目の四冠王となり、7つのタイトルのうちの過半数を占めた。 俗に「世界一将棋の強い男」とも称された。 しかし、名人位にだけはなかなか手が届かなかった。 この1980年代前半に米長と最も多く対局したのは中原誠ではなく、の雄・であった。 A級順位戦やタイトル戦などでの森安との激闘は居飛車対振り飛車、特に居飛車急戦の戦術発展に大きく寄与した。 その一例が1985年3月の第42期A級順位戦最終局である この一局、森安が勝てば6勝2敗となり、最終局が抜け番だった中原王将(当時)(同じく6勝2敗)に並び、プレーオフとなるところだった。 一方の米長は勝っても負けても名人挑戦、降級には関係ない一番。 その対局で新手を放ち勝利。 米長哲学を実践した一例とされる。 米長は、の棋戦でも力を発揮した。 で、1974、1977、1979、1980年度に優勝、では、1980、1984、1986年度に優勝、でも1978年度に優勝した。 また、公式戦ではないが、決勝戦が持ち時間15分・1分の考慮時間10回のでも、歴代2位タイとなる4度の優勝を果たしている。 戦法が流行していた頃、1990年(平成2年)(1989年度)の王将戦で挑戦者となった時に、「横歩も取れない様な男に負けては御先祖様に申し訳ない」と新聞紙上でコメントし、王将(当時)を挑発した。 この時は弟子の中川大輔四段(当時)のアパートに通い、南対策を教わったと自身の著書で書いている。 南は対局で横歩を取った。 この七番勝負は4-3で米長が王将位を奪取、うち2局が横歩取りとなり、1勝1敗であった。 しかし翌年1991年(平成3年)(1990年度)の王将戦で挑戦者となった南に2-4で敗れ防衛に失敗する。 (平成5年)、で7度目の挑戦者となり、中原名人をストレートで降して初の名人位を獲得した。 49歳11ヶ月での獲得、50歳での在位(「50歳名人」)は、史上最年長記録だった。 新宿ので行われた名人就位式・祝賀パーティーには、2000人を超える異例の人数の参加があった。 会場には新たにA級に昇格したもおり、席上で米長は羽生を指して「あの子が来年、私のクビを討ちにやってくる」とスピーチしていた。 その予言通り、は、A級1年目にして名人挑戦を果たした羽生に2勝4敗で破れ、防衛に失敗する。 以降は各棋戦の本戦に顔を見せることはあっても、タイトルを獲得することはなく、挑戦者になることもなかった。 、通算1000勝を達成して特別将棋栄誉賞を受ける。 (平成10年)、で4勝5敗の成績ながらリーグ表順位の差で、26年連続で在籍したA級からの降級が決まる。 B級1組で指す道を選択せずをして順位戦から撤退し、名人挑戦の可能性を残す道を自ら断った。 (平成15年)4月、記者会見を開き、勝ち残った棋戦のみ指し続け、すべて負けた場合に引退届を提出することを予告する異例の表明を行った。 当時59歳(実際の引退時は60歳)の米長の立場では規定により65歳が定年であったが、これを約5年早めるものであった。 各棋戦の予選で敗退を重ねていく中で第53期王将戦は、予選で2人のA級棋士・、を破り、60歳で挑戦者決定リーグの参加を果たす。 しかし、初戦から3連敗を喫して挑戦権争いから脱落することが確定し、4回戦の前日に改めてリーグ終了後に引退届を提出することを宣言した。 翌日の対局は、棋聖が相手であったが、佐藤は米長に敬意を払い和服(羽織袴)を着用して下座に着いていた(本来はタイトル保持者の佐藤が上座)。 朝、対局室でこれを知ったスーツ姿の米長は、すぐに自身の事務所に連絡して和服を取り寄せ、午後から和服姿で対局した。 第5局は竜王であり、森内もまた先に対局室入りすると和服を着用して下座に着いていた。 事前に察していた米長も今回は最初から和服を用意しており、森内に上座に座るよう勧めたが、森内の意思が堅いと知ると諦め、その代わりに 玉将を自玉として森内に敬意を表した(本来は上座が王将、下座が玉将)。 12月12日、最後の公式対局となった第6局の相手はであり、同じく共に和服での対局となった。 当日は、羽生名人と森内竜王の事前の提案で、特別対局室で行うこととなり、後手番の米長が力戦形に持ち込む難解な終盤戦となったが、郷田が勝利した。 感想戦後には花束が送られるなどし、最後に報道陣に「これから新しい人生のスタートです。 応援してください」と言って対局室を去った。 予告通り12月17日に引退届を提出し、約40年の棋士生活を終えた。 ただし、連盟の専務理事として運営には関与を続け、2005年には連盟会長に着任して死去する2013年まで同職を務めた。 棋風 [ ] 厚みを重視し、劣勢になると自陣に駒を打ち付け複雑にして逆転を狙うから、「 泥沼流」と呼ばれる。 本人の性格や見た目から「 さわやか流」と呼ばれていたこともあり、米長本人は後者の方が好きだったと言う(ただし、棋風との関連は不明)。 本格派ながら、定跡研究などによる序盤の構想よりも中終盤の攻防でねじ伏せる勝利が多く、特に将棋の終盤戦術の向上に貢献した。 四冠王になるなど絶頂期にあったときには、自著『逆転のテクニック』 の中で序盤研究に否定的な見解を示し、で鍛え抜いた読みの力をベースに劣勢になっても相手のミスを招く勝負術ならびに終盤力が将棋における勝負の本質であるとの見解を示していた。 若手時代から「序盤下手」と揶揄されることが多かった(谷川と共に「序盤の二下手」と呼ばれたこともある)一方で、羽生善治は米長の序盤を「序盤から息を抜けず緊張感を強いられる序盤巧者」と評している。 また、同じ振り飛車党に対しても大山に対しては位取りをメインにした持久戦を、森安に対しては鷺宮定跡(急戦)を採用するなど、 相手によって戦法を変えることを明言していた。 四冠王になる前には、「」や「新鬼殺し戦法」といった奇抜とも言える序盤戦術を開拓していた。 「角頭歩戦法」はタイトル戦(1975年(昭和50年)の第1局)の舞台で使用し、大きなインパクトを与えた。 しかし「角頭歩」についてはすぐ相手側の「回避策」が出てしまったが、それに影響を受けた戦法「」の源泉となった。 また「新鬼殺し戦法」は初心者向けのハメ手と戒められていたを立派な一戦術として確立させている。 四冠王となった頃に「」の開発、対振り飛車における「」や「」の整備といった功績がある。 「矢倉は将棋の」という有名な表現は米長の言葉である。 これは米長によれば 矢倉は 高尚である、と言った意味での発言ではなく、角が上下にギザギザネチネチと動き、ネチネチと押したり引いたりし、相手の出方を見てネチネチと手を変え、と言ったそのネチネチさを指して「純文学」と表現したとのことである。 昇段履歴 [ ]• (昭和34年) 初段• (昭和40年) 4月1日 五段(C級1組昇級)• (昭和41年) 4月1日 六段(順位戦B級2組昇級)• (昭和44年) 4月1日 七段(順位戦B級1組昇級)• (昭和46年) 4月1日 八段(順位戦A級昇級)• (昭和54年) 4月1日 九段(九段昇格規定30点)• (平成10年) 4月1日 「永世棋聖」を名乗る• (平成15年) 引退 主な成績 [ ]• 通算成績 対局数1904、1103勝 800敗、タイトル戦での1局• 他の棋士との比較は、、を参照 タイトル 獲得年度 登場 獲得期数 連覇 永世称号(備考) - 1 - - 93(第51期) 8 1期 1 79(第20期) 6 1期 1 - 0 - - 78(第4期), 80-83 7 5期 (歴代3位) 4 (歴代3位) 82(第32期)-83, 89 8 3期 2 73前(第22期), 80前, 83後-85後 12 7期 (歴代4位) 5 永世棋聖 1998年4月1日から名乗る 旧タイトル 獲得年度 登場 獲得期数 連覇 永世称号(備考) 84(第23期)-85 6 2期 2 登場回数合計48、 獲得合計 19期() 一般棋戦優勝 [ ]• 第1回(1973年度) 最多対局賞• 第2回(1974年度) 最多対局賞・技能賞• 第4回(1976年度) 最多対局賞• 第5回(1977年度) 最多対局賞• 第6回(1978年度) 最優秀棋士賞・最多勝利賞・最多対局賞• 第8回(1980年度) 最多勝利賞・最多対局賞• 第11回(1983年度) 最優秀棋士賞• 第12回(1984年度) 最優秀棋士賞• 第17回(1989年度) 殊勲賞• 第21回(1993年度) 特別賞• 第27回(1999年度) 升田幸三賞 ・・・ 「米長玉」(よねながぎょく)により 記録(歴代1位のもの) [ ]• 最年長名人獲得 49歳11か月(50歳名人)• 最年長名人失冠 50歳11か月• 十段リーグ連続在籍16期(十段獲得期間含む) 主な対戦相手との勝敗 [ ] 30局以上指した棋士との勝敗を以下に示す。 対戦相手 対局 勝 敗 勝率 タイトル戦 188 81 106 0. 431 獲得6 敗退14 104 46 58 0. 442 獲得2 敗退4 104 63 41 0. 606 獲得1 敗退1 69 34 35 0. 493 獲得0 敗退1 64 31 33 0. 484 獲得1 敗退1 55 29 26 0. 527 獲得3 敗退0 55 34 21 0. 618 獲得0 敗退2 53 38 15 0. 717 獲得1 敗退0 50 36 14 0. 720 獲得0 敗退1 44 30 14 0. 682 獲得1 敗退0 43 30 13 0. 698 獲得1 敗退0 40 28 12 0. 700 - 35 14 21 0. 400 獲得1 敗退1 以下、参考(30局未満) 12 10 2 0. 833 - 6 6 0 1. 000 - 18 9 9 0. 500 獲得2 敗退0 26 10 16 0. 385 獲得0 敗退1 13 3 10 0. 231 - 20 9 11 0. 450 - 1 0 1 0. 対中原戦の187対局(中原三段の1局を除く)は、同一カード対局数の歴代1位記録。 タイトル戦12連敗(1987年名人戦第3局から1989年名人戦第4局まで)は記録である。 (昭和57年) (通算600勝)• (昭和62年) 現役勤続25年• (平成4年) (通算800勝)• (平成4年) 山梨県イメージアップ大賞• (平成4年) 山梨県南巨摩郡増穂町(現:)名誉町民• (平成7年) (通算1000勝)• (平成14年) 現役勤続40年• (平成15年)• (平成19年) 地方教育行政功労者表彰• (平成25年) 年表 [ ]• タイトル戦の氏名は対戦相手。 色付きのマス目は獲得(奪取または防衛)。 色付き以外のマス目は敗退。 o : 勝ち、 x : 負け、 j : 持将棋、 s : 千日手による日程繰り延べ(例外的措置)• 将棋大賞は、 最優秀 : 最優秀棋士賞、 勝 : 最多勝利賞、 対 : 最多対局賞 年 度 4-6月 6-7月 12-2月 7-9月 9-10月 10-12月 1-3月 2-3月 一般棋戦 優勝 勝 負 備 考 度 - - 11 12 - 1963. 1プロ入り 度 - - 20 8 - 度 - - 27 11 - (大山が3年度連続 五冠独占) 度 - - 12 13 - 度 - - 15 10 - 度 - - 24 7 - 度 - - 27 12 - 度 xxxox - - 24 18 - A級昇級を決める 度 - - 30 14 - A級八段1年目 度 - - 29 19 - 度 xooo - xooxxx - 39 28 対 ooxxx 度 中原誠 xoxoxx - 中原誠 xoxxoox - 前期 45 30 技能賞 対 大山康晴 xxx 度 - 30 21 度 中原誠 xooxxox - 36 26 対 大山康晴 oxxox 度 - 中原誠 oxxxox - 早権 後期 42 23 対 (中原が五冠王に) 度 - 中原誠 xxxooox ooxxo 47 22 最優秀 勝 対 度 中原誠 ooxxxx 中原誠 xooxoxso - 中原誠 xxoxx 中原誠 xoxx 早権 45 25 度 中原誠 xojxxx 中原誠 ooxo 中原誠 xxxx - 大山康晴 oxxxx 中原誠 ooxo 早権 55 32 勝 対 oxxx 持1 度 - 加藤一二三 oxoxxx 森安秀光 oxoxo 名将 35 28 度 - 大山康晴 xoooo 大山康晴 ooo 連盟杯 40 25 1982. 28 494敗 年 度 4-6月 6-7月 12-2月 7-9月 9-10月 10-12月 1-3月 2-3月 一般棋戦 優勝 勝 負 備 考 度 xxxx 6連勝 24 26 度 谷川浩司 xxxx oxxxooo 29 26 殊勲賞 度 南芳一 oxoxxx 26 21 度 中原誠 xxxox 26 25 度 31 17 度 中原誠 oooo 17 18 特別賞 悲願の名人位獲得、 50歳で名人在位 初 度 xxxoox 29 24 1994. 12 657敗 度 26 18 (羽生が七冠独占) 度 15 20 度 14 19 A級からの陥落決定 度 9 10 宣言、 永世棋聖を名乗る 度 7 12 升田賞 度 8 15 度 6 15 度 9 14 度 4 11 2003. 楽しい詰将棋入門 山海堂, 1972• 将棋中級入門 初段をめざす中級者のために 山海堂, 1972• あなたの棋力を採点する1 - 3 山海堂, 1972 - 1973• 角頭歩戦法 山海堂, 1974• 新鬼殺し戦法 山海堂, 1974• 上記の二冊を合体して『ネット将棋で勝つ米長の奇襲』 マイナビ将棋文庫• 最強中飛車 日本将棋連盟, 1974• 将棋入門 基礎から実戦まで 文研出版, 1974• 振飛車破り あなたもプロになれる 山海堂, 1974• あなたならどう指す次の一手1 山海堂, 1975• 将棋再入門 中級脱出 ひかりのくに, 1975• 米長将棋勝局集 講談社, 1976• 一手・三手の詰将棋 山海堂, 1976 のちマイナビ将棋文庫• 楽しい詰将棋入門 続 山海堂, 1976• 正・続をあせて『楽しい詰将棋入門』 マイナビ将棋文庫• 日本将棋大系8 六代大橋宗英 筑摩書房, 1979. ヤグラ将棋好局集 日本将棋連盟, 1979. 米長将棋名局集 筑摩書房 1980. あいつより強くなれる将棋の本 二見書房, 1980. 米長の将棋1 居飛車対振飛車上 平凡社, 1980. 6(MYCOM将棋文庫DXとして2004年復刊)• 米長の将棋2 居飛車対振飛車下 平凡社, 1980. 8(〃)• 米長の将棋3 矢倉戦法 平凡社, 1980. 10 〃)• 米長の将棋4 ひねり飛車・横歩取り 平凡社, 1980. 12(〃)• 米長の将棋5 棒銀・腰掛銀 平凡社, 1981. 2(〃)• 米長の将棋6 奇襲戦法 平凡社, 1981. 4(〃)• 人間における勝負の研究 - さわやかに勝ちたい人へ 祥伝社, 1982. 6 (のち文庫、ノン・ポシェット• 米長邦雄九段のアマチュア将棋指南道場30講 全国縦断 小学館, 1982. 歴史への招待26 日本放送出版協会, 1983. 「戦国最強武田軍団」米長邦雄著を収録• 米長の名局 一手精読・現代将棋 6、筑摩書房、1984• がを超える 米長邦雄, 朝日出版社, 1984. 6(文庫化にあたって『「運とカン」を磨く』に改題、講談社プラスアルファ文庫• 米長将棋勝局集 講談社文庫 1984. 逆転のテクニック 悪い将棋はこう指せ! 上・下 日本将棋連盟, 1984. 11(のち、将棋連盟文庫• 泥沼流人生相談 あなたの人生に「実力」をつける本 ネスコ, 1985. 米長流四間飛車撃破 筑摩書房, 1985. 米長流必ず勝つ基本手筋 有紀書房, 1986. 米長流株に勝つ極意 強い金、強い運で挑め サンマーク出版, 1986. 米長流速攻居飛車 筑摩書房, 1986. 米長流攻め方の基本手筋 有紀書房, 1987. 米長上達シリーズ 昭文社, 1988. 米長流基本手筋実戦の急所 有紀書房, 1988. 米長のスーパーアドバイス 日本将棋連盟, 1988. 人生一手の違い 「運」と「努力」と「才能」の関係 祥伝社, 1989. 12(のち文庫、ノン・ポシェット• 米長流基本手筋実戦の攻防 有紀書房, 1991. 運を育てる 肝心なのは負けたあと クレスト社, 1993. 7 (のち文庫、ノン・ポシェット• 泥沼流振り飛車破り さわやか自戦記 日本将棋連盟, 1994. 人間における運の研究 米長邦雄, 致知出版社, 1994. 最強中飛車 日本将棋連盟, 1994. 人生、惚れてこそ 知的競争力の秘密 米長邦雄, クレスト社, 1996. 3(文庫化にあたって『勉強の仕方』と改題、ノン・ポシェット)• 勝負の極北 なぜ戦いつづけるのか ,米長邦雄 クレスト社, 1997. 3(文庫化にあたって『戦いはこれからだ』と改題、ノン・ポシェット)• ふたたび運を育てる ピンチとチャンスは同じもの クレスト社, 1998. 一流になる人二流でおわる人 ,米長邦雄 致知出版社, 1999. 幸せになる教育 子どもも親も先生も校長も 海竜社, 2001. 宮本武蔵の次の一手 決して後悔しない人生論 説話社, 2002. 達人の道 米長邦雄達人戦勝局集 毎日コミュニケーションズ, 2004. 勝負師 ,米長邦雄 朝日新聞社, 2004. 大局を観る 米長流・将棋と人生() 日本放送出版協会, 2004. 不運のすすめ 角川書店, 2006. 六十歳以後 植福の生き方 海竜社, 2007. 名人の脳ドリル詰将棋 面白くて脳に効く! 米長邦雄監修 主婦と生活社編 主婦と生活社, 2008. 癌ノート ~米長流 前立腺癌への最善手~ ワニブックスPLUS新書, 2009. われ敗れたり—コンピュータ棋戦のすべてを語る 中央公論社 2012. 2 のち文庫 論文 [ ]• 研究本等 [ ]• 金子将棋教室 米長邦雄VS中原誠の巻 晩声社 1980. 米長邦雄の運と謎 運命は性格の中にある 著 山海堂 1994. 米長邦雄ともに勝つ 毎日新聞社 1997. 米長邦雄の本 日本将棋連盟(編)日本将棋連盟 2004. 4 ゲーム監修 [ ]• 米長邦雄の将棋セミナー(用ソフト)サクセス 2002. 6 DVD [ ]• 東京の窓から1 どうする? だれがやる? 人間教育 ,米長邦雄 2007. 1 その他 [ ]• 北口(との連絡口)にあった(協賛)の懸賞広告看板の出題監修を担当。 からまでの20年間・116回(隔月出題)にわたり出題が行われた。 脚注 [ ] []• YOMIURI ONLINE 読売新聞. 2012年12月18日. 2012年12月18日閲覧。 2012年12月21日. 2017年8月26日閲覧。 2013年1月15日. 2017年8月26日閲覧。 2011年10月4日. 2017年8月26日閲覧。 この発言は、元々はによる(米長がこう言ったという)冗談であり、本人はこのような発言をしていないという。 しかし、あながち間違っていないと思い、積極的に訂正しなかったともしている(読売新聞・「時代の証言者」による)。 ちなみにこれには続きがあり、その兄によれば「馬鹿でなければあんな奴の兄は務まらない」。 2012年12月18日. 2017年8月26日閲覧。 山梨版 2012年12月19日配信 2013年2月1日閲覧• (livedoorニュース 週刊ゲンダイ2006年8月29日掲載 2011年7月2日閲覧)• 杉本は、米長および伊藤能が亡くなり、が師匠となったが、中川の理事解任と杉本の四段昇段を受け、故・米長門下という扱いになった• 当時は「」誌などで米長の「島研」参加がセンセーショナルに報道されたが、真に序盤研究目的だったのか、中原名人(当時)に対する盤外戦術だったのかは不明。 - 日刊ゲンダイ・2017年8月10日• この段落は特記無き場合、1995年『米長の勝負術』 毎日コミュニケーションズ、 p. 56「米長流勝負哲学」を典拠とする。 和歌山章彦 2018年11月16日. 2018年11月16日閲覧。 しんぶん赤旗. 2011年12月15日. 2017年6月16日閲覧。 『将棋博物館」閉鎖で木村名人の娘を怒らせた「米長会長」』 週刊新潮 2006年(平成18年)11月30日号• 『ふたたび運を育てる - ピンチとチャンスは同じもの』37頁 米長邦雄著 クレスト社 1998年(平成10年)6月• 写真週刊誌 1985年(昭和60年)11月1日号 新潮社• 2011年10月6日. 2017年8月26日閲覧。 米長はこの手について「練りに練った作戦でしたが、負けると「奇策」などと書かれます。 」と、一部報道に対し嫌悪感を示している。 2012年1月27日閲覧。 2011年12月21日. 2017年8月26日閲覧。 2012年1月14日. 2017年8月26日閲覧。 『われ敗れたり』 pp. 67, 94-97, 103-104• 『われ敗れたり』 pp. 67, 94-97, 103-104• 歴代最多優勝は谷川浩司の5回(2014年現在)。 他に中原誠が4回優勝している。 タイトル獲得の最高年齢としては大山王将の56歳がある。 コトバンク 米長邦雄• 60歳超えの王将戦挑戦者決定リーグ参加は、大山康晴に次いで史上2人目であった。 『逆転のテクニック - 悪い将棋はこう指せ! 』 上巻 米長邦雄著 日本将棋連盟 」• 『日本将棋用語事典』pp. 157-160• 第30期までの順位戦の期数は、名人戦の期数に対して5期のずれがあり、第36期から名人戦と順位戦の期数がそろえられた。 このため、第31 - 35期の順位戦は存在しない。 つまり、米長のA級以上在籍は、26期連続である。 2007年10月11日. 2017年8月26日閲覧。 参考文献 [ ]• (監修)、荒木一郎(プロデュース)、ら(編)、2004、『日本将棋用語事典』、東京堂出版• 米長邦雄、2012、『われ敗れたり コンピュータ棋戦のすべてを語る』、中央公論社 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• - (2013年1月16日アーカイブ分)• yonenagakunio -• 1 9• 2 6• 3 7 ・ 6 ・ 6• 4 11• 5 6 ・ 6 ・ 5• 6 5 ・ 5• 7 11 ・ 5 ・ 5• 8 6 ・ 6 ・ 5 ・ 6• 9 12 ・ 7• 10 該当なし• 10-11 12• 11 6• 12 6 ・ 9 ・ 6 ・ 8• 13 10 ・ 6 ・ 5 ・ 6• 14 6 ・ 6 ・ 7• 15 11• 16 8• 17 該当なし• 18 6 ・ 5• 19 5 ・ 6 ・ 7• 20 8 ・ 16 ・ 5• 20-21 7• 21 6• 22 7 関連項目.

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米長邦雄

米長邦雄 真野あずさ

大学時代はアルバイトに励む 眞野さんは、お父さんが 「日本航空」勤務のサラリーマンという家庭で生まれ育つのですが、すでにお姉さんの真野響子さんが女優として活動されていたこともあり、高校時代には、何度も女優としてスカウトされたそうです。 ただ、お姉さんと比較されることが嫌で毎回断り、また、 「真野響子の妹」と騒がれるのも嫌だったため、学校ではできるだけ目立たないようにしていたそうです。 そんな眞野さんですが、お父さんに、高校卒業後の進路について、 女性に学歴は必要ない。 短大で充分だ と、言われると、 残り2年の学費は自分で払う と、反発し、4年制の大学に進学。 そのため、大学時代は、学費を払うために、デパートのお惣菜売り場の売り子、家庭教師、選挙事務所のスタッフ、株の電工掲示スタッフ、魚のたたき売り、ビジネスショーのオペレーターなど様々なアルバイトに励まれたそうです。 「週刊朝日」の表紙でモデルデビューするも・・・ そんな中、眞野さんは、アルバイトの一環で、ファッション雑誌 「non-no」の専属モデルに応募するも、残念ながら最終審査で落選。 ただ、その際、審査員にスカウトされてモデル事務所に入ると、大学4年生の時には、雑誌 「週刊朝日」の表紙を飾り、モデルデビュー。 そして、その後も、CMなどの仕事をされていたそうですが、ギャラが良すぎたため、金銭感覚が麻痺していくことが怖くなり、最終的にはモデルの仕事をやめて、地道なアルバイトの生活に戻り、大学卒業後は、半年間、TBSラジオ局長の秘書のアルバイトをされていたそうです。 その後の経緯は不明ですが、1982年には、テレビドラマ 「風の鳴る国境」で女優デビュー。 「風の鳴る国境」より。 眞野さんとさん。 しかし、その後、出演する予定だった映画の仕事を両親が勝手に断り、事務所を辞めさせられてしまったのでした。 NHK朝の連続テレビ小説「心はいつもラムネ色」で脚光を浴びるも・・・ それでも、翌年の1983年には女優に復帰すると、 「夕暮れて」「徳川家康」「おしん」「千春子」などのテレビドラマに立て続けに出演。 そして、1984年には、NHK朝の連続テレビ小説 「心はいつもラムネ色」で、福本裄乃役(吉本興業の創業者・吉本せいさん)を演じ、一躍注目の的に。 「心はいつもラムネ色」より。 しかし・・・今度は、知名度と自身の実力のギャップに悩み、女優をやめることを考え、半年間、活動を休止されたのでした。 橋爪功と「弁護士・高林鮎子」、藤田まことと「はぐれ刑事純情派」 それでもやはり思い直したようで、1986年には、さんとのタッグで事件を解決していく推理ドラマ 「弁護士・高林鮎子」で、弁護士の高林鮎子役を演じると、ドラマは大ヒットを記録。 以降、2005年まで続く大人気シリーズとなると、そのほかにも、数多くの2時間ドラマやサスペンスものに出演。 「弁護士・高林鮎子」より。 眞野さんと橋爪功さん。 そして、1988年には、刑事ドラマ 「はぐれ刑事純情派」で、主人公の安浦刑事()さん行きつけの高級バーのママ・片桐由美役を演じられると、眞野さんの美しい和服姿と、安浦刑事の癒やし的な存在は、たちまち中年男性の間で人気を博したのでした。 「はぐれ刑事純情派」より。 眞野さんと藤田まことさん。 Sponsored Link 出演作品(テレビドラマ、映画、cm) それでは、ここで、眞野さんの主な出演作品ご紹介しましょう。 テレビドラマでは、 1982年 「風の鳴る国境-明子と早苗-」 1983年 「NHKドラマ人間模様『夕暮れて』」 NHK大河ドラマ 「徳川家康」 NHK朝の連続テレビ小説 「おしん」 1984~1985年 NHK朝の連続テレビ小説 「心はいつもラムネ色」 1986~2005年 「弁護士・高林鮎子シリーズ」 1983年 「ポーラテレビ小説『千春子』」 1984年 「アイコ17歳」 1986年 「武蔵坊弁慶」 1987年 「旅はおしゃれに」 「ばら色の人生」 NHK朝の連続テレビ小説 「はっさい先生」 「弁護士・高林鮎子シリーズ」より。 眞野さんと橋爪功さん。 1988~2009年 「はぐれ刑事純情派」 1990年 「山村美紗京都サスペンス 水仙の花言葉は死『洛中洛外花ごよみ』」 1990~1994年 「藤田まことの丹下左膳シリーズ」 1991~1998年 「銭形平次」 1999年 「ママさん記者明衣子の事件」 「銭形平次」より。 (左から)さん、眞野さん、さん。 2000年 「着物デザイナー 黛涼子の推理紀行シリーズ」 2001年 「上条麗子の事件推理シリーズ」 2003年 「高校教師」 「検事・朝日奈耀子シリーズ」 2005年 「着物デザイナー 黛涼子の推理紀行シリーズ」 2006年 「さくら署の女たち」 「検事・朝日奈耀子シリーズ」より。 さんと眞野さん。 2007年 「警視庁捜査ファイル さくら署の女たち」 2011年 「刑事吉永誠一 涙の事件簿シリーズ」 2013年 「刑事吉永誠一 涙の事件簿」 2014年 「マトリの女 厚生労働省 麻薬取締官」 「マトリの女 厚生労働省 麻薬取締官」より。 真野響子さん(左)と眞野さん(右)。 に続く.

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