人 は なん の ため に 生きる のか。 人はなんのために生きるのか、という稲盛和夫さんの講演を聴いて

自分のために生きる人生 vs 誰かのために生きる人生|Dr.ラス|note

人 は なん の ため に 生きる のか

レイ・の晩年の民話の中に 「人はなんで生きるか」という民話があります。 この民話は、天使ミハイルが、神さまの「ひとりの女の魂を抜いてくるように」といういいつけをやぶって人間界に下ろされて人生とは何かを悟ってくる物語です。 「神さまからひとりの女の魂を抜いてくるように」といういいつけを受けて下界に行くと、女の双子を産んだばかりのひとりの妻が病気で寝ていました。 母親は、子どもを乳房に抱き寄せる力もなく、私を見つけて「天使さま、夫は死んで埋められたばかりです。 姉妹もおばさんもありません。 この子たちを育ててくれる人がありません。 わたしの魂を連れていかないでください」と懇願したのです。 天使ミハイルはそれでその母親から魂を取ってくることができず、天に戻ったのです。 すると、神さまは、「行け、そしてその母親から魂を取れ、そしたら三つの言葉がわかるだろう・・・ 人間の中にあるものは何か、 人間に与えられていないものは何か、 人間はなんで生きるか、それがわかるだろう。 そしてそれがわかったら、天に戻ってくるがいい」といわれたのです。 天使ミハイルはひとりきりで素っ裸で野の中に残されました。 急に人間になったので、ひもじくもなれば、凍えてもきました。 ふと見ると、礼拝堂が建っていたので、礼拝堂の傍に身を寄せたのです。 やがて日が暮れてすっかり弱ってしまいました。 そこへ、靴職人のセミョーンが通りかかり、私に着物を着せて自分の家に連れて行ってくれたのです。 家に着くと、奥さんのマトリョーナが、ぶつぶつ文句を言いながらも最後には面倒を見てくれました。 その時わたしは神さまの第一の言葉「人間の中にあるあるもの」-それは愛であることを悟りました。 靴職人として修行して1年が経ったある日、死の天使の影を背負った一人の裕福なお客が形も崩れなければ縫い目もほころばない長靴を作ってくれと注文に来ました。 この時、神さまの第二の言葉を悟ったのです。 「この人は一年先のことまで用意しているが、この夕方までも生きていられないことを知らないのだ」。 その時、 神さまの第二の言葉、「人間に与えられていないものは何か」、それは「人間には自分の肉体のためになくてならぬものを知ることが与えられていない」ということが分かりました。 (肉体の維持のために必要な分限がわからない。 必要以上に物へこだわり、富へこだわることになっている。 ) 靴職人として働いて6年目、双子の女の子がひとりの女の人と一緒に来ました。 その子どもたちは、私が魂を抜いた母親の子どもたちでした。 その子どもたちは、死なないで生きていたのです。 子どもたちは、隣りの乳飲み子を抱えた婦人が乳をくれてこのとおり大きくなったのです。 婦人は、「我が子は、二つの時に亡くなり、それきり子どもは授かりませんが、財産は増え、今はこの二人がかわいくて仕方ありません」と語りました。 その婦人が感動して泣き出した時に、その婦人の中に生きた神様を見て、 神さまの第三の言葉「人はなんで生きるものであるか」を悟りました。 「わたしは、すべての人は自分のことを考える心だけでなく、愛によって生きるのだということを知りました。 神さまは、人々が離ればなれに生きてゆくことを望んではいらっしゃらないで、みんなが心を合わせて一つになって生きていくことを望んでいらっしゃる。 ひとが自分で自分のことを考える心づかいによって生きているように思うのは、ただ人間がそう思うだけにすぎなくて、じっさいはただ、愛の力だけによって生きているのだということがわかりました。 愛によって生きているものは、神さまの中に生きているのです。 つまり神さまは、その人の中にいらっしゃるのです。 なぜなら、神さまは愛なのですから。 」 未だ神を見し者あらず、われらもし互いに相愛せば、神われらに在す(ヨハネによる第4章12節) (レイ・作中村百葉訳「民話集 人はなんで生きるか 他四編」より) 「人生とは何なのか、なんで生きるか」。 簡明に記述したに拍手を贈りたい。 higurasi101.

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稲盛和夫の哲学―人は何のために生きるのか

人 は なん の ため に 生きる のか

神奈川県の某市立小学校の小6と授業で哲学対話してきた。 初回は私たちが持ってきた「友だちとは何か」という問いについて対話をしたのだが、今回は事前にアンケートをとって、彼らから出てきた問いについて哲学することに。 大学院の先生と先輩と3人で行ったので、クラスを3つのグループに分けてそれぞれ輪になる。 先生が「この人のことはれいと呼んであげてください」とわたしを紹介するので、生徒たちはギャーれーーギャハーウケるーという感じである。 あだ名があってよかった。 アイスブレイクで席替えをしてもらい再びギャハーをやって、ようやく哲学を始める。 今回書いてもらった問いはこれがダントツ多かった。 人は何のために生きているのか? 重いよ。 算数、国語、理科、生きる意味かよ。 れーギャハーからの席替えウヒャーからの生きる意味かよ。 でも、そんな心配は全然問題ではなかった。 彼らは彼らが主人公の人生の中で、今日の給食は何だろうとどきどきしながら考えるのと同じように、生とはなんだ生きるとはなんだと考えることができるのだろう。 いまここに生まれちまった!ということの切実なふしぎは、「じゃあ今日は、人は何のために生きているのかってことについて哲学しようか」なんてなれなれしく話しかけてくる見ず知らずの全身ネイビー人間に対してもぶつけることができるのである。 せっかくなので覚えていることをここに書こう。 書きます。 一番最初の発言者は、「人に生きる意味なんてねえよ!」と叫んだ男子だった。 もっと「人の役に立つため」とか「何か使命を持って人は生まれてきた」とか耳障りのよい言葉がでるかなと思ったけど、そんなきれい事はいらねぇぜという感じ。 わたしはもともと、目の前で展開される対話の渦からはるか上空に飛翔し「ふむ、こいつの言っていることは的なやつだな」とか「の要素も入ってるな」とか心の中でつぶやきながら参加者の発言をカテゴライズして固く対象化してしまう姿勢の、上から見下ろしが好きではなくて、いやいや一緒に対話-内-存在しましょうよ!と思ってしまう。 まあそんなこと言いつつも小学生とやるときは特に、ついつい一緒に考えるのを忘れて交通整理に徹してしまいそうになって、なーにメタな視点とろうとしとるんやわたし、と恥ずかしくなったりする。 だが今回の対話は、たとえ鳥瞰したくともさせてくれないパワーがあった。 彼が言い終わると周りの生徒たちが、しゃべった!しゃべった!と騒いでいる。 どうしたのと聞いたら、彼は過去2回の哲学対話でほとんど喋らなかったそうな。 クララが立った!的なノリに流されそうになりながら、ふうむ、と考えさせられる。 クララ(仮名)は発言したあと、なんでこんな不条理でわかりきったことを聞くのか、と言うかのように椅子に背をどっしり預けた。 投げやりに言っているとかではなく、生きる意味なんてない生に対して怒っているようだった。 その姿を見ていたら、小学生のとき人は何のために生まれてくるのか分からなくて怖くて泣いたことを思い出した。 その怖さはきっと、人はいつか絶対に死んでしまうということに気がついたときと同じ瞬間だったかもしれない。 わたしは死んでしまうのに、なぜわたしは生きているのだろう?とおそろしかった。 クララにもっと教えてと頼む。 すると彼は「だっていつか死ぬじゃん」と言った。 それに対して反感がウギャーとわき起こったのでもう一度整理しつつ「わたしも小学校のとき人生には意味はないかもって考えて怖くなった。 けどいまだによく分からない、だからみんなの意見聞かせて」と言った。 すると「そんなこと考えてたなんて、すごい小学生だなあ。 」と小学生に冷静に感心される。 いやいや、現にこの問いは君たちから出てきたんじゃん、と笑ってしまう。 わたしたちはマーチを気軽に口ずさめるのに、そこに「テツガク」なんてかっこいい冠をかぶせてしまうとまるで崇高な営みであるかのように思ってしまう。 確かにわたしも、大学一年のとき哲学のゼミで間違ったことを言ってしまったらどうしようと一言も発言できなかった。 真理を手にしたであろう仙人のような大先生に、「愚か者め!」とか「笑止!」とか罵倒されて崖から突き落とされる!と思い込んでいた。 でもしばらくしたら、先生たちは偉い仙人というよりもトレジャーハンターみたいだということが判明したし、一人じゃわからないから人と集まって喋るってことも分かった。 を理論で理解するよりも前に、実感としてのがあった。 まあそんなことはどうでもよくて、とにかく不条理な生について腹立ってるなら、もっと話そうぜ!とクララに対して思った。 ピコ太郎だって、penとから-penを創り出しているじゃんか。 ピコ太郎のリズムに頭の中を支配されていたら、別の男子が「たしかに人生に意味はないよ、でも生きる意味をつくっていくのが人生じゃん」と反論した。 再びウギャー。 みんなが一斉にしゃべり出す。 ウワーみんな聞いてー聞いてー!と手で制さないといけない。 みんなには楽しいこと、好きなことがあるという。 それを見つけていくのが生きるということなんだと。 あなたがたが生きる以前には生は無である。 しかし、これに意味を与えるのはあなたがたであり、あなたがたの選ぶこの意味以外において価値というものはない。 の言葉をどうしても思い出してしまう。 人生に意味なんてないからこそ、意味を見つけていくことが可能なのだという逆説。 対話は錯綜しながらなぜかについても触れられる。 トランプはやばい!トランプはだめ!と12才たちが声を荒げつつも「生きる意味とは関係なくなっちゃったじゃん」とか「人の悪口になっちゃうよ」と誰かが注意して再び問いに引き戻される。 が「話を戻そうね」なんて言わなくても、彼らは自分たちで対話の主導権を共有することができる。 「子孫を残すため」という意見も出た。 ある女の子は「いつかひとは死ぬかもしれないけど、その子孫が生き延びる」とクララに言い返す。 クララは「その子孫も死ぬじゃん」と言う。 女の子は果敢に「その子孫も子孫を残す」とラリーを続ける。 「たとえばべろべろっていう生き物がいるとして」とある男子が話し出す。 そいつが宇宙の外側から俺らを見てて、実験して遊んでいるんだ、べろべろの役に立っているんだからそれだったら生きる意味はあるんだ、とのこと。 まずべろべろというネーミングの秀逸さに笑う。 でもそっちの方が意味ないよりいやだ、という。 たしかにそれは生きる意味がないっていうことよりもむなしいことだ。 そのうち、続けてその男子がものすごい熱量でしゃべり出した。 俺は自分と違うものはきらいだ、これはトランプだ、でも俺はトランプなんだ、俺は自分の好きなものにだけ囲まれていたい、俺はひとを思うようにしてしまいたい、そんなよくぼうがある!彼の友だちたちはウゲェ〜と顔をしかめて笑っている。 それを見て彼も困ったように「 俺は神になりたいんだなあ」と笑っている。 この発言に対して、彼の友だちが「でもそれはオマエの物語だろ?」と言う。 なんて素敵な言葉選びなんだ。 すると神になりたい少年は「そうなんだよ、俺は神になりたいけど、神にはなれないんだよなあ」と笑っていた。 他者を排除してしまいたい、異質性を除外してしまいたい、その人間の欲望を彼は直視している。 そしてそんな欲望を持つ自分を笑ってもいる。 友だちはそんな彼を独断的だと批判しながら受け入れている。 もう少し掘り下げたいのに時間がない。 クララは「神になれたとしてもいつか死ぬじゃん」という顔をしている。 意味を見いだしたとしても、死がそれを全て無に帰してしまう、と憤っている。 するとまた別の女子が「でもさあ、死ぬから生きるんじゃん」と言った。 「 変な言い方だけど、死ぬために生きてるんだよ」。 なんだよそれーと言いながら、みんなはもっと妥当な言い換えができやしないか考えている。 わたしも考える。 だが時間がない。 先生が遠くで「ハイ、じゃあそろそろ」と言っているのが聞こえる。 まだやる〜〜〜と何人かが文句を言う。 それでも授業は終わり、自分たちの教室に帰るためにあっという間に生徒たちはいなくなってしまう。 こんなことを、3クラス続けてやった。 盛り上がったからといってよい対話な訳でもない、哲学対話をする前から彼らはこれだけ考えることができたのかもしれないし、つまらなくて今後やりたくなくなった人もいたかもしれない。 そんなこと考えすぎてたら何もできなくなっちゃうでしょう、とも思うけど、常にどきどきしながらやらなきゃなとも思う。 生徒たちが立ち上がったときに「もし答えが分かったら教えて」とお願いした。 おっけーおっけーと上の空で答えられてしまったけど、数十年後であろうが、どうにかして彼らの問いに対する答えがめぐりめぐってこちらに届けば嬉しい、頼むよみんな。

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人間はなんのために生きているのか?と考えてはいけない重大な理由

人 は なん の ため に 生きる のか

レイ・の晩年の民話の中に 「人はなんで生きるか」という民話があります。 この民話は、天使ミハイルが、神さまの「ひとりの女の魂を抜いてくるように」といういいつけをやぶって人間界に下ろされて人生とは何かを悟ってくる物語です。 「神さまからひとりの女の魂を抜いてくるように」といういいつけを受けて下界に行くと、女の双子を産んだばかりのひとりの妻が病気で寝ていました。 母親は、子どもを乳房に抱き寄せる力もなく、私を見つけて「天使さま、夫は死んで埋められたばかりです。 姉妹もおばさんもありません。 この子たちを育ててくれる人がありません。 わたしの魂を連れていかないでください」と懇願したのです。 天使ミハイルはそれでその母親から魂を取ってくることができず、天に戻ったのです。 すると、神さまは、「行け、そしてその母親から魂を取れ、そしたら三つの言葉がわかるだろう・・・ 人間の中にあるものは何か、 人間に与えられていないものは何か、 人間はなんで生きるか、それがわかるだろう。 そしてそれがわかったら、天に戻ってくるがいい」といわれたのです。 天使ミハイルはひとりきりで素っ裸で野の中に残されました。 急に人間になったので、ひもじくもなれば、凍えてもきました。 ふと見ると、礼拝堂が建っていたので、礼拝堂の傍に身を寄せたのです。 やがて日が暮れてすっかり弱ってしまいました。 そこへ、靴職人のセミョーンが通りかかり、私に着物を着せて自分の家に連れて行ってくれたのです。 家に着くと、奥さんのマトリョーナが、ぶつぶつ文句を言いながらも最後には面倒を見てくれました。 その時わたしは神さまの第一の言葉「人間の中にあるあるもの」-それは愛であることを悟りました。 靴職人として修行して1年が経ったある日、死の天使の影を背負った一人の裕福なお客が形も崩れなければ縫い目もほころばない長靴を作ってくれと注文に来ました。 この時、神さまの第二の言葉を悟ったのです。 「この人は一年先のことまで用意しているが、この夕方までも生きていられないことを知らないのだ」。 その時、 神さまの第二の言葉、「人間に与えられていないものは何か」、それは「人間には自分の肉体のためになくてならぬものを知ることが与えられていない」ということが分かりました。 (肉体の維持のために必要な分限がわからない。 必要以上に物へこだわり、富へこだわることになっている。 ) 靴職人として働いて6年目、双子の女の子がひとりの女の人と一緒に来ました。 その子どもたちは、私が魂を抜いた母親の子どもたちでした。 その子どもたちは、死なないで生きていたのです。 子どもたちは、隣りの乳飲み子を抱えた婦人が乳をくれてこのとおり大きくなったのです。 婦人は、「我が子は、二つの時に亡くなり、それきり子どもは授かりませんが、財産は増え、今はこの二人がかわいくて仕方ありません」と語りました。 その婦人が感動して泣き出した時に、その婦人の中に生きた神様を見て、 神さまの第三の言葉「人はなんで生きるものであるか」を悟りました。 「わたしは、すべての人は自分のことを考える心だけでなく、愛によって生きるのだということを知りました。 神さまは、人々が離ればなれに生きてゆくことを望んではいらっしゃらないで、みんなが心を合わせて一つになって生きていくことを望んでいらっしゃる。 ひとが自分で自分のことを考える心づかいによって生きているように思うのは、ただ人間がそう思うだけにすぎなくて、じっさいはただ、愛の力だけによって生きているのだということがわかりました。 愛によって生きているものは、神さまの中に生きているのです。 つまり神さまは、その人の中にいらっしゃるのです。 なぜなら、神さまは愛なのですから。 」 未だ神を見し者あらず、われらもし互いに相愛せば、神われらに在す(ヨハネによる第4章12節) (レイ・作中村百葉訳「民話集 人はなんで生きるか 他四編」より) 「人生とは何なのか、なんで生きるか」。 簡明に記述したに拍手を贈りたい。 higurasi101.

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