三好長治 麒麟。 「麒麟がくる」三好長慶・細川晴元登場決定への雑感

松永久秀~三好長慶に忠義を誓った人物~官僚であり武将として時代の中心で活躍するも信貴山城にて死す。

三好長治 麒麟

三好長慶の波乱に満ちた生涯 長慶の人生は幼少期から晩年にいたるまで波乱万丈でした。 それは彼の出自にも関係があります。 まずはその生い立ちと彼の残した功績について見ていきましょう。 幼くして父を殺される 長慶の父である三好元長です。 (見性寺所蔵) 長慶は大永2年(1522)管領・細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として、現在の徳島県に生まれました。 細川家は足利将軍家の重臣「三管領」の一つで、政治的にも軍事的にも大きな力を持つ大名家です。 その家臣だった父・元長は、晴元の政敵である細川高国を討つなど大きな功績を残しました。 ところがその勢いを警戒した晴元や同族の三好政長・木沢長政らが謀略して一向一揆を起こし、元長は暗殺されてしまいます。 そのため長慶はわずか10歳で家督を継承し、本拠地の阿波に逃げることとなったのです。 父の仇:細川晴元に仕える 元長殺害のために起こした一向一揆は、やがて晴元でも抑えられないほど大きくなり、享禄・天文の乱へと発展していきました。 収拾がつかなくなったこの一揆を鎮静化させたのは、父親を殺された長慶です。 『本福寺明宗跡書』によると、当時12歳だった長慶が、晴元と石山本願寺の一向一揆勢力の和睦を斡旋したとされています。 これは元長が戦死して1年たらずの出来事でした。 長慶はこの直後に元服し、数年後には本願寺に味方をして晴元や政長と戦っています。 しかし晴元の家臣の仲介もあり、まだ若年であることを理由に許され、その後は晴元の家臣となりました。 晴元・三好政長との対立 晴元のもとで離反や帰参を繰り返して勢力を拡大した長慶は、やがて石山本願寺からも一目置かれるほどの存在になりました。 そんな中、ついに父の仇の一人・長政の征伐に成功します。 また天文17年(1548)にはもう一人の仇である政長の追討を決意。 これは政長が父の死に関係していたことを知ったからともいわれますが、理由は諸説あるようです。 しかし、政長は晴元から厚く信任されている人物だったため、長慶は越水城で軍議を開き「もし晴元が政長を庇うなら、主君である晴元も敵とみなす」ことを決定します。 足利将軍を都から追放する 京から逃亡した室町幕府第12代将軍・足利義晴です。 長慶は晴元に政長父子の討伐を願い出ましたが、その意見は受け入れられませんでした。 そのため、長慶はかつて敵だった細川氏綱・遊佐長教と手を組んで晴元に反旗を翻します。 これにより政長は討ち取られ、晴元らは将軍・足利義晴と義輝父子たちを連れて逃亡、都は将軍不在の状況に陥りました。 将軍を都から追放した長慶は、主君として氏綱を立て、晴元派の伊丹親興がいる伊丹城を開城させ摂津を平定します。 こうして幕府の実権を掌握した彼は、畿内を中心に8か国を支配する大名にまで上り詰めたのです。 これは事実上の三好政権の誕生でした。 松永久秀の謀略と長慶の最期 英雄百人一首より、三好長慶像です。 10歳で家督を継いでから怒涛の巻き返しをはかった長慶。 最初の天下人という呼び名に相応しい活躍を見せた彼ですが、その状況は長くは続きませんでした。 十河一存の急死が引き金に 長慶の衰退のきっかけは、永禄4年(1561)に起こった弟・十河一存(そごうかずまさ)の急死でした。 一存は軍事的に重要な立場にいたため、これは三好家にとって大きな事件だったといえるでしょう。 死因は病気とも事故ともいわれますが、陰謀説もあるようです。 一存の死によって彼が治めていた和泉の支配が弱まると、その隙をついて晴元の次男・晴之を盟主とした畠山高政と六角義賢の攻撃が始まります。 この戦いは翌年まで続き、さらには弟の一人である三好実休(じっきゅう)が戦死しました。 嫡男の病死が追い打ちをかける 短期間に2人の弟を亡くした長慶ですが、翌年の永禄6年(1563)8月には嫡男・義興が22歳の若さで早世します。 そのため一存の息子・重存(義継)を養子に迎えますが、将来を嘱望していた義興を失ったことは長慶にとって大きなショックでした。 またその年の12月には名目上の主君・氏綱も病死し、三好家の政権維持に必要な形式的な管領も失ってしまいます。 安宅冬康を誅殺し、病が悪化! 永禄7年(1564)5月9日、長慶は弟・安宅冬康(あたぎふゆやす)を飯盛山城に呼び出し誅殺するという事件を起こします。 これは家臣・松永久秀から「冬康が謀反を起こそうとしている」と知らされたからでしたが、後に久秀の讒言だったことが発覚します。 『足利季世記』によると、この頃の長慶は相次ぐ不幸により心身に異常をきたし、病にかかって思慮を失っていたといいます。 冬康の死後はさらに容体が悪化し、最後は飯盛山城で病死しました。 長慶の人物像とは 戦国武将だけではなく、文化人の顔も持つ長慶。 猛々しく戦い、政権を握った長慶ですが、その功績とは反対に性格は穏やかだったようです。 長慶の人物像とはどのようなものだったのでしょうか。 早熟の天才型だった? 長慶はわずか12歳で晴元と一向一揆の和睦を仲介しています。 元服前の少年が交渉を取りまとめるのは誰でもできるようなことではありません。 このことから早熟の天才肌だったといえそうです。 また長慶は、信長と同じように堺の経済力に注目しており、貿易によって莫大な軍事費や軍需品を入手していました。 曽祖父の代から受け継いだ周辺諸国との関係や軍事力に加え、このような鋭い視点があったことが勢力拡大につながったのでしょう。 和睦を繰り返す寛大な性格 戦いを繰り返した長慶ですが、最後まで敵を追い詰めることはなく、和睦をはかる寛大な性格でした。 晴元と将軍・義輝を破った際は追撃せず、弟から晴元の三宅城を落とそうと提案されたときも拒否しています。 それどころか晴元が帰京する際は警護し、優位な立場にありながら和睦を希望しました。 『足利季世記』によれば、長慶はかつての主君と和睦できたことに涙したそうです。 また長慶は晴元の長男・昭元を人質にしていましたが、彼を殺すことなく晴元と再会させています。 晩年は連歌を好んだ 長慶には文化人としての側面もありました。 当時の武将の中でも高い教養を誇っていた彼は、たびたび連歌会を開いていたといいます。 晩年の彼が勇猛さを失っていたのは、連歌に没頭していたからという見方もあるようです。 松永貞徳の随筆集『戴恩記(たいおんき)』によれば、当時は長慶のこのような一面をなじる者もいたのだとか。 しかし長慶はこれに対し和歌で反論しています。 短期間で消滅した三好政権 信長よりも早く天下人になったといわれる長慶は、戦いと和睦を繰り返しながら勢力を拡大していきました。 それは三好政権を成立させるほど強大でしたが、残念ながらその名前は信長や秀吉ほど知れ渡ることはありませんでした。 そこには長慶の寛大な性格が関係していたのかもしれません。 長慶の栄華は弟の死をきっかけに崩れ始め、最後は心身ともに病に侵されるという結末を迎えています。 最初の天下人といわれる長慶は、短くも濃い、波乱万丈な生涯を送ったといえるでしょう。 <関連記事>.

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「三好長慶」細川氏に代わり、政権を樹立した日本の副王。

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いやはや完全に不意を突 かれました。 「」はご存知 が主人公の ですが、光秀はこれまでのでもややその周辺の人物が主役として出る中、スポットが当たったり当たらなかったりした人物であります。 令和2年(2020)に光秀が主役になることで、 過去の大河と何が差別化できるのか?というのは大きな注目ポイントでもあります。 そうした中、「」は当初から 「最新研究を織り込む」「を単なる「革命家」とは描かない」旨を公言していました。 思えば、この10年・20年でや戦国期の研究と再評価はだいぶ進んでおります。 そういうわけでへの再評価という観点からも「」への注目は結構高かったわけです。 特に私が推している三好家・というのは、近年再評価が進んでいるわけですが、戦国期との双方を相対化する可能性を秘めています。 そして実はとも微妙に縁が深い。 は光秀の主敵ポジションにいますし、はと家臣の掛け持ちの先駆け、光秀の領国であるを光秀以前に統一的掌握まで持っていったのは内藤宗勝(松永長頼)、の原因には様々な説がありますが、四国説を重視するなら三好康長は間違いなくキーマンです。 権時代を描いておけば、という存在への伏線が大量に散りばめられるのです。 これはまあ個人的な野望ですけれども、せっかくだから採り上げてくれないかなという思いも強かった。 ところが、続報として出て来る情報はこうした期待感とは裏腹なものが目立ちました。 光秀の出身地は美濃に設定され、に仕え、従妹にの妻となる…。 の紹介ビジュアルに載る「出生の秘密」という文字…。 「後の荒廃した世」という表現…。 おいおい大丈夫か、「」の再生産になってないかという疑惑が強まります。 からは・義昭、、三淵藤英、がメイン級人物としての登場が明らかになりました。 三淵藤英がメインとして出るのは 新しさをかなり覚えますし意欲的ですね。 一方、三好家としては。 この人物も近年再評価が進んだ人物でして、一昔前の「梟雄」イメージはだいぶ刷新されています。 「」ではそうした研究成果を踏まえるのか、踏まえないのか、大いに注目されるところでした。 この点、 さんが演じると聞いた時は、上手いところを突くと感じました。 吉田さんは確かに胡散臭い悪人相ですが、目の奥に純粋さがあるとも思うんですよね。 確かに見た目は梟雄としてのビジュアルなんですが、見ようによっては「忠臣」であるという描き方も可能な役者さんで、そこが「」の久秀の見所になるかとも勝手に考えていたわけです。 文言があまりに !完全に義輝が正義サイドだし、久秀は三好家で専横を極めてそうだし、将軍も殺しそうだし、大仏殿も焼きそうです。 何よりここまで来て久秀以外の三好人脈の影が一切ない。 「後の荒廃」を全て久秀に背負わせてしまい、久秀や義輝を相対化する視点が全く見えてこない。 これで本当に新しいドラマになるものなのだろうか。 始まってもいないドラマに勝手に期待して、勝手に裏切られてケチ付けてるわけですが、ガッカリ感は確かに存在しているからどうしようもない。 このまま、三好家は(後半に康長が出る可能性はあるにせよ)出て来ないのだ…。 美濃の光秀目線でをアピールしてもらうなんて所詮無理筋だったのだ…。 と覚悟を決めつつあったところへ、12月27日の午後だったわけです。 うれしかった。 は忘れられていなかったのだ。 とりわけ大きいのは の登場決定です。 だけなら単にに操られる主君としてカメオ登場みたいなノリもあり得ますが、晴元が登場したことでドラマ的に長慶の「」を射程に入れていると見なせます。 また、長慶を演じるのが さんという点も注目されます。 個人的に一番嫌な像というのがありまして「優柔不断で上位者を完全に叩き潰せない、晩年はボケて家をに乗っ取られた所詮は旧勢力の男」というものであります。 山路さんが20代の長慶を演じるのは無理あるだろ!はご本人のコメントからも窺えますが、それだけに大物感というのは抜群です。 さんの久秀は一癖も二癖もありそうですが、山路さんの長慶ならそれさえも自身の手駒として使いこなせる凄みがあります。 この家臣にしてこの主君ありを地で行くキャスティングだと思います(若干老けてはいますが、山路さんのビジュアルも長慶の有名なの悪人度を上げたら近くなるタイプで一致度も高いですね)。 まあ山路さんのコメントを読むに、「」の長慶は「細川や畠山の内紛で乱れたを収め一時の平和を実現した」と言うより 「の極致での秩序を引っ掻き回した悪人」になりそうですが、無能よりはヒールの方がだいぶマシです(アンチ幕府重視ですと天野先生の研究にも近いですしね)。 三好・松永主従も「善良無能な長慶とそれをいいことに専横する久秀」ではなく、 悪人主従になりそうでその描かれ方も気になるところです。 長慶が登場確定したことで、長逸らの出演もグッと確率が上がってきました。 こうした環境での久秀像は「忠臣」にしろ「梟雄」にしろ一風変わった、新しいものにはなると思います。 そもそも長慶って「謀反人」ですからね。 への反逆は長慶主人公目線だと、「父の仇」とか「国人の利益代弁」とか上手いように取り繕いますけど、主君への軍事蜂起は「謀反」には違いなく、同時代史料でも「三好守謀反」とちゃんと書かれています。 それなのに長慶が現代悪し様に言われたりしないのは、謀反の成功を持続させたからです。 そういったところを光秀、あるいは久秀の最期と照らして見るのも一興かもしれません。 そして。 これまた「」のビジュアルは年食ってますが(没落する江口の戦いの時でもまだ30代ですよ)、国広さんの晴元は 「威厳もあり実力もあるが、器が足りていない、の敗者」といったイメージが具現化されているように感じます。 晴元も登場する、の大きさは晴元は長慶に追放された後もフェードアウトはしないという点にあります。 サイドがそれなりに描かれることはすでにわかっているので、義輝が長慶に追放されている間はよりも三淵藤英よりも国広さんの晴元がデンと近侍している(はず)です。 さんのイケメン義輝との対比が画になるんじゃないかと思われます。 義輝と言えば、山路さんのコメントによると長慶には殺陣のシーンがあるようです。 長慶自身が刀を振るうと言えば、知ってる人はピンと来るアレなんじゃないかと。 進士賢光による暗殺未遂事件ですね。 巷間にはの投入として理解されていますが、「」でも描かれるならそういう視点になるんじゃないのかな。 単なる悲劇の将軍ではない一面にもなるところですので、義輝像にも膨らみが出ますよね。 まあ色々話しましたが、結局のところこれらも 「勝手な期待」であってどう転んでいくかはわからないところはあります。 しかし、期待の仕方、され方の潮流は長慶と晴元両名の出演とキャスティングによって 次元が変化したとは言えます。 「」が 新しい像、戦国像を示してくれればかなり啓発的です。 楽しみにしています! hitofutamushima.

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【最初の天下人?三好長慶】その経歴と功績、人物像に迫る!

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三好康長は どちらかと言えばマイナーな三好一族の中ではそこそこ名前が知られている武将ではないかと思われる。 なぜなら、康長はのとなっており、近年はの原因として四国説がクローズアップされる中、四国説のキーマンとなる人物だからである。 来年放映予定の 『』でも、主人公がであるからには、 康長も登場することは間違いなく、 ドラマの中での役割やキャストには今から期待している。 …ってそういうことを言いたいのではないのだが。 しかし、三好康長はの家臣としては新参であり、それまでの長きに渡って明確に 信長の敵であった。 康長を一転して重用するに至った信長の判断は興味深く思われるが、あまり説得力のある説明は聞いたことがない。 しかも臣としての康長は目立った戦功を挙げていないようにも見えるが、 信長からの重用は信長が死ぬまでいささかも揺るぐことはなかった。 これこそ四国説の鍵を握る事象であるが、これまたなぜそうしたのかという説明は聞かれない。 ここでいう説明はされているのではないか?という方もいるだろう。 例えば、長宗我部氏との取次であると康長と結んだの同士の対立であるとか、信長は長宗我部氏の勢力伸長を喜ばず、対抗馬の三好氏に肩入れするようになったとか。 しかし、こう言ったところで説明になっているだろうか?例えば、長宗我部氏は織田政権の四国攻めが迫る5月下旬段階でも、基本的には信長の意志に従う姿勢を見せている。 こと惟任光秀が信長の無二のであり、政権の中で重職を担ってきたのは今更言うまでもない。 対して阿波三好氏は、以降でも四国でも滅亡しかかっており、わざわざ肩入れする勢力としては心もとない限りである。 信長の「上意」に基本的に忠実で、後継者信親にを与えている長宗我部氏を穏当に政権内に取り組む手段などいくらでもあるのであり、四国政策から光秀を排除してまで三好氏と結ぶ理由は実は乏しいのではあるまいか。 秀吉と康長の関係を設定し、秀吉・光秀間の対立を見るにせよ、織田政権下での秀吉は四国政策に積極的関与はしておらず、そもそも秀吉と康長に関係があったとしてそのコネクションは何が狙いなのかなど、種々の新たな疑問が浮かぶ。 しかして、それは三好康長がどのような役割を担っていたのかで説明可能なのではあるまいか。 ちなみに三好康長は出家名の三好咲岩(笑岩)でも知られ、信長の家臣に転じた後は還俗して三好康慶を名乗るようになるが、 この記事中では三好康長で呼称を統一する。 1 三好康長がに従うまで 三好康長を紹介ついでに信長に従うまでをざっと追ってみよう。 三好康長は周知の通り三好一族で、仮名は 「孫七郎」、官途名は 「山城守」である。 康長は一般的にの叔父、で言うと長慶の父・の弟とされている。 しかし、の父・三好長秀は永正6年(1509)に亡くなっている。 つまり、康長が長秀の子(元長の弟)とするなら、永正6年(1509)以前の生まれということになるが…。 三好康長の文書上の初見は永禄2年(1559)で、この時すでにに列してはいたが、未だ「三好孫七郎」であった。 こうしたところを見るに康長はこの時せいぜい30歳前後と推測され、長秀の子というのは成り立ちにくく考えられる。 康長の官途名である「三好山城守」は、康長の活動初見に遡る30年ほど前、三好之長の弟・一秀が用いたものでもあり、康長は一秀の子孫ではないかとも考えられるが、確証はない。 さて、三好康長は 「阿波三好家」に属していた。 権と一口に言っても、内実はを支配する 「三好本宗家」と四国を支配する 「阿波三好家」の二元体制であったとは幸氏の研究成果である。 要するに康長の直接の主君はではなく、その弟の (一般には「」として知られる)であった。 「阿波三好家」の本来の任務は四国の支配にあったが、長慶は河内侵攻に四国勢を動員し、畠山氏の分国であった南部の支配を「阿波三好家」に任せた。 これは私の造語だが 「阿波三好家河内」が誕生したのである。 支配の拠点であったのは守護所である高屋城で当初は実休が高屋城主となっていた。 しかし、永禄5年(1562)河内奪還を目指す畠山氏との戦いの中、は戦死する(久米田の戦い)。 直後ので畠山氏を撃滅したため、「河内」は命脈を保ったがトップが消えてしまった。 こうした中永禄5年(1562)11月29日「河内」のたちは、「若子様」(実休の子・三好長治)への忠誠と協力して統治に当たることを誓った。 署名者は篠原長秀、加地盛時、三好康長、矢野虎村、吉成信長、三好盛政、三好盛長、市原長胤、伊沢長綱である。 彼らは原則として対等の立場であった一方、康長が財務を管轄するなど、康長が若干突出するものであった。 康長は実休生存時も単独で禁制を発給しており、当初より河内の中では 別格の存在でもあったのである(事実上、康長が高屋城主の地位を引き継ぐことになった)。 その後の永禄7年(1564)が亡くなり、永禄8年(1565)に長慶を継いだ三好義継やらが将軍を殺害する(永禄の変)。 康長ら「河内」は永禄の変に直接加担はしなかったようである。 しかし、この後とが対立すると、11月康長は長逸らとともに城を襲撃し、三好義継にの排除を脅迫した。 と康長の間には同盟が成立し、協力することになった。 ただ、康長の目的は「河内」の維持で、中央政治を担当する三人衆との役割分担は厳然としており、康長が三人衆より上位となることもなかった。 康長と三人衆はとその同盟勢力に対し戦いを優位に進めた。 だが、永禄11年(1568)が幕府再興を掲げ、とともに上洛してくると、三人衆は敗退して阿波に退去した。 康長も「河内」を放棄し、阿波に下ったと見られる。 「河内」の支配領域には畠山氏が復活し、畠山秋高が守護となって高屋城に入った。 康長と三人衆は支配を諦めたわけではなく、早くも翌12年(1569)正月に上洛して、将軍を襲撃した(本圀寺の変)。 この襲撃は失敗に終わったが、康長の反攻は始まったばかりであった。 翌元亀元年(1570)に幕府の朝倉氏征伐がの離反によって失敗すると、康長と三人衆は活動を活発化させ、と結ぶことで摂津西部を確保した。 康長の狙いは「河内」の再興であった。 精力的に軍事行動を展開し、畠山氏と戦うなど河内南部奪回を目指した。 しかし、徐々に三好方は旗色が悪くなっていく。 元年(1573)になると、の勢力伸長が著しく、、、三好義継が滅ぼされ、三人衆の活動は確認できなくなり、は京都から追われた。 の政権が樹立されたのである。 一方で、河内南部では畠山氏の・遊佐信教が畠山秋高を殺害し、康長は信教と手を組むことで高屋城主に返り咲いた。 康長にとっては、同盟相手がいなくなる一方「河内」の再興に成功していた。 だが、はと結んでいる「河内」を放置するはずもなかった。 3年(1575)4月、信長は攻めと見せかけて、河内南部への進撃を開始し、香西越後守と十河重吉が守る新堀城を落城させた。 守りの要と位置付けていた新堀城の陥落に、康長は戦況の不利を悟り、松井友閑を通じてに降伏した(この時旧主実休秘蔵の茶器である「三日月」を献上している)。 すると、信長はあっさり康長の自身への帰属を認め、河内南部の支配を認めた。 背景としてはが東方で軍を起こしており、信長としても同盟者であるを救援せねばならず、康長に掛かりきりではいられない事情があった(この直後に有名なが起こることになる)。 三好康長としては 願ったり叶ったりの待遇だった。 康長は「河内」を再興したとはいえ、すでに信長に従っていた畠山旧臣たちもおり、河内南部を総じて支配できていたわけではなかった。 それが信長に降伏することで、逆に信長からを与えられて、旧畠山分国をそっくりそのまま手に入れることが出来たのだ(逆に「阿波三好家」としてはの支配地域を全て失ったが)。 康長はいきなりのに列したのである。 2 三好康長の家臣としての活動 臣としての三好康長の最初の活動はとの和睦を、松井友閑とともに仲裁したことである。 3年(1575)12月 康長は友閑とともに和睦を保障する起請文に署名している。 しかし、この和議は信長に敵対する将軍がを調略したことで、翌4年(1576)2月には早くも壊れた。 4月に信長はを討つべく再び出陣し、原田直政(塙直政)、惟任光秀、長岡藤孝、らを包囲陣として配置した。 康長は河内衆を率い、原田直政の軍に属していたようだ。 しかし、5月3日織田軍は先陣を三好康長、2番手を原田直政として木津砦に攻撃をかけたところ、からの猛襲を受け、直政が塙一族らとともに奮戦して討死する傍ら、 康長は逃亡して織田軍は崩壊した。 この敗報を聞いたは急遽出陣し、光秀の籠る砦の窮状を知るや、5月7日兵数が揃わないうちに軍に突撃し勝利した(の戦い)。 の軍勢の鉄砲によって信長自身が負傷して手にした勝利であった。 この戦後処理において、 信長が原田直政の塙一族を粛正したことは、近年有名になってきたところである。 信長は敗北した直政の責任を重く見たのだろう(直政が死んで粉飾決済がバレたという話もある)。 しかし、そもそも敗戦時の先陣を務めていたのは三好康長で、 康長がとっとと逃げたのに比べると直政は奮戦したぶん頑張ったとも言えるのではないだろうか。 この後康長が外交に関わることはなかったので、取次更迭というペナルティはあったのかもしれないが、 康長はその後もの地位を失わず、責任を問われることはなかった。 康長はその後も攻めに動員されつつ、領国となった河内南部の統治を進めていたらしい。 こうした中、康長の旧主である「阿波三好家」は激変していく。 4年(1576)三好長治はかつて阿波を治めていた細川讃州家の子孫・細川真之や一宮成助、伊沢頼俊に離反され戦死した。 一方で阿波の勢力全てが真之らに従ったわけではなく、三好越後守や矢野守らは「阿波三好家」の統治を維持せんと、本拠地である勝瑞城を確保した。 この内紛は基本的に阿波の国内問題で、どの勢力がどの外部勢力と手を結ぶのか、各方面から注視されていた。 の四国政策とは上洛以来、三好氏征伐にあった。 阿波三好家も基本的にを支援する側で、この文脈からを支援し、篠原長房らをに派遣していた。 これは信長とが決別しても、阿波三好家が義昭方に組み込まれることで継続した。 信長は阿波三好家を討つべく、細川信良に命じての香川氏を調略もしていたが、 最も大きな施策はのの支援であった。 長宗我部氏への取次となったのは 惟任光秀で、これは光秀がや氏を通じて、長宗我部氏と縁戚にあるからだった。 信長は元親の子に「信親」の名乗りを与えるなど、長宗我部氏を厚遇したのである。 はの後援の下、三好氏討伐という名分を獲得して、阿波へ侵入していくことになった。 元親が提携相手として選んだのは 三好式部少輔である。 勝瑞城を本拠にする三好越後守らは堺から 三好存保()を招聘して「阿波三好家」を再興した。 細川真之や一宮成助らは長宗我部氏や「阿波三好家」と組んだり離れたりして第三勢力としての位置を保った。 戦国時代でも、三好氏によって穏便に統治されてきた阿波は真の意味で戦国時代に突入した。 はもちろん長宗我部氏を支援する姿勢を崩さない、と思いきやこの頃から織田・長宗我部間外交は徐々に隙間風を生じ始める。 かつて「阿波三好家」のであった三好康長が故郷・阿波の内紛に当初から主体的に関与したかは定かではないものの、8年(1580)に伴い阿波にやって来て勝瑞城を奪った・の牢人衆がの「」を標榜していたことと康長が近く讃岐に派遣されるという噂は元親を刺激している。 前者は牢人衆が勝手に自称しただけという可能性もあるが、康長は9年(1581)2月に讃岐経由で阿波に入国し、長宗我部氏に通じていた三好式部少輔を調略しての味方に付けている。 これを受け、と長宗我部氏の利益調停を図るためか、信長と康長は式部少輔と長宗我部氏の融和を図った。 信長朱印状には以下のような康長の副状が付けられた(宛名である「香曽我部安芸守」は元親の弟である香宗我部親泰のこと)。 爾来不申承候、仍就阿州表之儀、従 信長以朱印被申候、向後別而御入眼可為快然趣、相心得可申旨候、随而 同名式部少輔事、一円若輩ニ候、殊更近年就忩劇、無力之仕立候条、諸事御指南所希候、弥御肝煎、於我等可為珍重候、恐々謹言、 六月十四日 康慶 香曽我部安芸守殿 御宿所 この頃は 「上様」と尊称されるのが定着していたを 「信長」と呼び捨てに出来る康長の地位が偲ばれる(一応この頃でも家臣による「信長」呼び捨ては例がないわけではない)。 内容としては丁重に同族・式部少輔の地位確保を頼むもので、康長が長宗我部氏を敵視するようなニュアンスはない。 ただし、長宗我部氏が勢力伸長する中でも三好一族の権利維持を訴えたものと見る事もできよう。 この頃信長周辺に長宗我部氏のことを讒言する者がいたらしく、讒言者が康長である可能性もあるが、確証はない。 そして、三好康長が織田政権の讃岐・阿波担当者であることがより明確化されていく。 9年(1582)11月の松井友閑書状では 「就其阿・讃之儀、三好山城守弥被仰付候」という表現が出ている。 阿波・讃岐両国は康長が統括するという方針が示されたのである。 しかし、この方針は同時に、ここまで自力で阿波に勢力を拡大してきた長宗我部氏を認めない意志をちらつかせるものでもあった。 10年(1582)1月は征伐に出陣するが、同時に康長に四国渡海を命じた。 征伐が終わると信長は三男・信孝に次のような朱印状を与えた。 就今度至四国差下条々、 一、之儀、一円其方可申付事、 一、之儀、一円三好山城守可申付事、 (略) 万端対山城守、成君臣・父母之思、可馳走事、可為忠節候、能々可成其意候也、 十年五月七日 三七郎殿 長宗我部氏が進出していたは「一円」三好康長に与えられることになり、信長の眼中にもはや長宗我部氏はなかった。 さらに自身の子である信孝に対し 「康長を親とも主君とも思え」と訓戒している。 実際信孝はこの後康長の養子になったようだ(全然関係ないが、信孝の仮名「三七郎」は見事に信長の「三郎」と康長の「孫七郎」の合体名になっている)。 信長は将来的な信孝の継承ありきではあるが、「阿波三好家」再興に大きく方針を転換させたのである。 康長は2月以降すでに阿波に渡り、織田の大軍来襲を宣伝しつつ、勝瑞城に入っていた。 「阿波三好家」の看板を持っていた三好存保とも結んだ康長には雪崩を打つように阿波三好家の残党が加わり、一宮城や夷山城を攻略するなど織田軍渡海への準備を進めている。 もこの勢いの前に、5月21日付けで海部城と大西城を残して阿波から撤退するという譲歩を示す書状を認めた。 神戸改め三好信孝を主将、惟住長秀を副将とする大軍が四国渡海を前に堺に続々集結し、織田政権による「阿波三好家」再興の時は目前に迫っていたのである。 ところが、6月2日京都に滞在していた・信忠父子を惟任光秀が襲撃し、両者を討ち取った()。 この事件が伝わった堺ではパニックで軍勢が離散してしまい、康長も信長という後ろ盾を失ったとあっては阿波に留まり得ず、に逃亡した。 こうして、 信長のとしての康長のキャリアは、主君の死によって突然終わった(もちろんそれで臣ではなくなったわけではなく、康長はとの提携に活路を見出していくことになる)。 以上、としての三好康長を概観した。 の人材登用と言うと 信賞必罰というイメージのある方もいるだろう。 しかし、康長は何か取り立てて役立ったと言えるのだろうか。 もちろん積極的な活動が見られない5年(1577)~8年(1580)も史料が残っていないだけで精力的に活動していた可能性はある。 しかし、の戦いでの康長の行動は明らかに失態であり、責任を負わなかったのは奇妙にも映る。 康長の上司とも言い得る原田直政の塙一族やが粛清された時も康長には全く累が及ばなかった。 また、8年(1580)まで康長は目立った活動がないが、以降の信長は長宗我部氏に冷淡になり、康長を通じて阿波三好家再興にのめり込んでいく。 そして康長は讃岐・阿波の統括者になり、信長の子・信孝をして親や主君に比される存在となる。 このような存在としては譜代や叩き上げである河尻秀隆やがいるが、康長が長らく信長の敵であった新参であることを思えば、この待遇は 破格と言えるだろう。 しかし、重ねて言うが康長の何の行動が、彼の織田政権でのかくも高位を与えているのだろうか? 何を訝しがっているのかわからない人もいるだろう。 要するに順序が違うのではないかということである。 しかもその過程で、、惟任光秀は織田政権で約束されかけていた地位を失っている。 換言すれば、は三好康長に 「や従来の外交を排除してまでも将来的にものすごく役に立つ」何かを見出していたということになるだろう。 3 征伐に見るの軍事観 ところで唐突であるが、の軍事とはどういうものであったか、簡単に見てみたい。 素材にするのは10年(1582)をあっという間に滅ぼした、いわゆる 「征伐」である。 と武田氏は本来同盟者であったが、元亀3年(1572)にが信長を裏切ったことで以降敵対していた。 は長年よく・徳川氏と戦い、領国維持に努めてきたが、9年(1581)3月を救援し得ず、の武田軍が全滅したことで 「天下の面目」を失った。 に従っていては、もしもの時に助けてもらえないという感情が勝頼旗下の国人たちに喚起されたのだ。 この効果はすぐに現れ、10年(1582)1月西衆・は勝頼から離反し、織田方に鞍替えした。 そこで信長はいよいよ勝頼を叩くべく、東国への出陣を決めた。 しかし、ここで見たいのはいかに織田軍がを滅ぼすかという道程 ではない。 に侵入した織田軍の主将は信長の嫡男・ であり、信長より一足先に出陣していた。 もちろん信忠の単独行ではなく、 河尻秀隆・といった老臣が信忠の補佐役として信長から付けられていた。 ただ、信忠軍は信長出陣を待つことなく、武田領国に先行していったのである。 信望を失った旗下からは多くの部将が離反し、信忠軍はどんどん深入りし、3月11日には勝頼を討ち取った。 あっという間に武田領国は崩壊し、織田軍の占領するところとなった。 結果だけ見れば、の大戦果であった。 しかし、 は先行し続ける信忠軍の動きを常に危惧していた。 信長は自身が出陣するまで、信忠軍がそれ以上の深入りをしないことを、・河尻秀隆・といった幹部に数日置きに厳命している。 しかし、 なぜはここまで信忠軍の突出を戒めているのであろうか?が急に逆襲してくる危険に怯えていたのだろうか。 あるいは、武田滅亡の戦功を信忠に独占されるのが気に食わなかったのだろうか。 もちろんそうではない。 織田軍が前進し続けること自体に問題があったと見るべきである。 その問題の端緒は、実は出陣の条々にすでに記載があった。 …在陣中 兵粮つゝき候様にあてかい簡要候… が常に危惧していたのは、信忠軍が先行し続けることで 補給が追い付かなくなることであった。 この信長の危惧は杞憂ではない。 事実、織田軍は3月中旬に兵糧の欠乏に陥り、脱走兵が出始めた。 信長は接収した武田軍の兵糧を分配し、また・から兵糧の支給を受けることでこの危機を乗り切ったが、もしも勝頼がもう少し粘れていたなら、織田軍は兵糧問題から快進撃を続け得なかったと考えられる。 そうなれば、あるいは取り残された織田軍は犠牲になり、信長にとっての「高天神」になることもあり得た。 信長が 「信忠が下手な動きをしたら、生きて帰ってきても二度と会わないからな」とまで言った背景とはこのようなことであった。 への意識から前線の際限ない拡大を危ぶむ信長の軍事センスは、80年ほど前のどこかの島国の首脳にも聞かせたいところだが、それはともかくとして。 は常にへの意識が高く、同時にそれを実現できる軍事システムは完成していなかったことが理解できる。 4 四国への直接介入の方法とは? ここで再び目を四国に転じよう。 さて、から四国へ行くにはどうすればいいのだろうか?戦国時代にはももない。 裸一貫大阪湾を泳げばいいのだろうか?いやそれにしても武具は携行できるのか?なんてアホな話をするのではない。 普通は船を使うものである。 謎のボケをてしまったが、から四国に行くにはどうやっても船を使うしかない。 船と言っても、大船団を形成するには、大量の木材と職人が要る。 通常のであれば、乗員は100人単位だし、武具や兵糧の支給も考えれば、万の軍勢を送るには3ケタを超えるレベルの船舶数が必要なのである。 さらに船があればそれで終わりではなく、航路の把握や安全の確保、船で行く先の最低限の治安維持も含めるとクリアすべき条件は多い。 要するに四国・間を大軍が移動するハードルは高い。 への意識が高いであればこそ、妥協は出来ない。 例えば、軍勢を四国へ送り込むとしても、途中で海賊に襲撃されるかもしれない。 上陸を果たしても補給が追い付かなくては、軍勢は四国で飢えてしまう。 もしも三好氏の軍と交戦し敗北を喫したら、帰りの船はないかもしれない。 そのためにも両岸に有力与党勢力がいなければならない。 せっかく派遣した軍勢が助けもなく全滅などという事態に至れば、は「天下の面目」を失うことになるだろう。 そういうわけで実際、は四国へ織田の軍勢を送ることはついぞなかった。 は上洛以降、幕府秩序の中で播磨や但馬に援軍を送り、何度も阿波三好氏討伐を訴えた。 しかし、 阿波三好氏討伐のために義昭幕府および信長がとった手段は常に調略だった。 軍事動員による「成敗」こそ効果的であろうに、信長は一度も四国に軍勢を派遣しなかった(出来なかった)。 別に信長を侮っているわけではなく、すらないのだから当然のことである。 ところで、ここからが本題である。 何と戦国時代には・四国間に自由に大軍を移動させることが出来た勢力がいた (前振りである)。 澄元系と三好氏である (ババーン!)。 彼らはで苦境に陥った際、常に四国勢を渡海させ、その合力でもって対抗勢力に勝利してきた。 その規模は記録類にもよるが、5000~2万くらいで、だいたい1万人ほどが来ていたと考えて良い。 四国勢の有無で戦局が左右されるのだから、小勢なはずがあるまい。 四国勢は・三好氏の要請があると、基本的にそれを拒否することはなく、大軍を送り込めた。 関係史料が少なく滅多な事は言えないが、その動員はシステム化されていたと見られる。 では、三好氏(と)はどうやってこの動員を可能にしていたのか。 要因としては以下のものが挙げられよう。 大阪湾に面した摂津・和泉と対する讃岐・阿波という両岸に勢力を有していた• 淡路の水軍の棟梁・安宅氏に養子を入れ(安宅冬康)、淡路の水軍を傘下とした• 四国は木材の産地で船を作る資材に事欠かない(撫養には舟座があった)• 尼崎、兵庫、堺といったを掌握し、三好氏の政商を作って利害関係を一致させた 最近、権を 「環大阪湾政権」、織田政権を 「環伊勢湾政権」と規定して、両者の共通点と差異を語る説に出くわしたことがあるが、「環伊勢湾政権」と「環大阪湾政権」の違いとしては、後者はの大軍輸送を伴っていたことがあるだろう。 三好氏は人的ネットワークによって、大阪湾・東瀬戸内海のを握り、これがの大軍動員を可能にしていたのである。 そして三好氏が掌握し続けてきたこの優位性は、義昭幕府や織田政権が生まれてもすぐに失われたわけではない。 信長上洛の際、や篠原長房は阿波へ退避したが、は阿波から出撃する三人衆や康長を撃退することは出来ても、逆に阿波に攻め入ることは出来なかった。 三人衆や篠原長房は阿波に逃亡したり、阿波からに出撃したりしているが、の勢力は一度も四国とを往来できなかったのは真に対照的である。 信長は尼崎を放火したり、堺から矢銭を献上させて屈服させようとしたが、堺は実際には矢銭献上後も性を保ち、三好氏の要人が滞在するなど、織田方に完全に組み込まれたわけではなかった。 が信長に長年抵抗できたのも、が大阪湾を制し得なかったために、補給が自由に出来たという側面もあった。 三好氏が約50年かけて築いた大阪湾での地位は、新参のがすぐさま奪ってしまえるものではなかった。 さらに信長の「環伊勢湾政権」は大軍の輸送の経験が乏しいもので、で登用した家臣団もノウハウがあるわけではない。 織田人脈が大阪湾に食い込んでいくには、本来様々な試練を伴うものであった。 5 三好康長の役割 そろそろ結論が見えてきた人もいるのではないだろうか。 8年(1580)が屈服し、織田政権はようやく大阪湾の支配に乗り出す。 翌9年(1581)11月には・が淡路の反織田勢力を駆逐し、淡路をようやくの勢力圏に入れた。 もっとも淡路のは三好一族の安宅神五郎(実休の子で存保の弟にあたる)がリーダー格である体制が存続したようである。 こうしてようやく織田政権は四国へ派兵可能な条件を揃え、10年(1582)5月に準備された四国攻めに繋がって行く。 だが、9年(1581)も暮れになって織田政権が渡海派兵の準備をしたのを余所に、 臣としての三好康長はそれ以前からと四国を往来できていた(2次史料出典なので確証に欠けるが、一度ではなく複数回行ったり来たりしている)。 単に使者として一人で移動すればいいわけではなく、康長の渡海はが警戒したように、 数百レベルかもしれないが軍勢を伴っていたはずである。 すなわち、康長は織田政権が大阪湾に進出する前から、大阪湾を軍勢で往復していたということになるだろう。 一体どういうことなのか。 これこそが康長に期待された三好ブランドだろう。 茶人として名高い康長は堺の商人にも顔が利いたし、阿波にも基盤があった。 何より康長は永禄からまで信長の敵としてではあるが、何度も軍勢を伴って大阪湾を移動し、そのノウハウを熟知していたのである。 にとって、三好康長は四国に介入するための切符のようなものだった。 そして、この切符を持っているのは康長 だけだった。 原田直政やが持っていないのはもちろん、も持っていなかったし、長宗我部氏の取次であった惟任光秀にも大阪湾に大軍を動かす術はなかった。 信長は三好康長の経験と知識に頼らざるを得なかったのであり、その過程で四国政策に関係する可能性のあるは姿を消して行った。 彼らとて、じゃあ四国へ大軍を送ってくれと言われても困ったであろう。 これは長宗我部氏とて同じことであった。 元亀2年(1571)に土佐一条氏のが将軍に鷹を献上したことがあったが、そのルートに介在したのは阿波三好家の・篠原長房と三好義継だった。 土佐の勢力も基本的に阿波三好家の四国・間流通を用いてと連絡していたのである。 さらにの阿波進軍ルートも陸路によるもので、その四国統一に最後まで抵抗したのが阿波三好家旗下の経歴を持つ森水軍であったのが象徴的であるが、勢力拡大といっても阿波沿岸のを握れたわけではなかった。 つまり、 長宗我部氏がどれだけ阿波に侵入しても、その成果として織田の大軍を迎え入れることには繋がらなかった。 が軍事動員を以て四国介入を成すには、どれだけの戦争で役に立たなかろうが、三好康長(の持つ三好氏の伝統的な)を用いるしかなかった。 これが歪な人事になってまで、康長が優先された理由と考えたい。 信長が長宗我部氏に冷淡になって行くのも、本質的にはその勢力拡大が織田軍の四国直接介入に直結しないという事情が本質に近いのではないだろうか。 もちろん信長がただ康長に引っ張られたわけではなく、康長も織田政権の威光があってこそ、四国介入に内実が伴った(後、康長がとっととに引き揚げたのも信長の威光なくては四国にいるのが危険だったからである)。 こうして考えると、康長の最後の動向が豊臣政権によるいわゆるに見えるのは象徴的である(康長が降伏したを出迎えたという)。 以降、三好康長はいつ死んだのかもわからず、記録から消える。 権に代わる中央政権が、での大軍輸送と補給が可能となったその時を境にして、康長の存在意義は消えたのである(もちろん康長ら三好氏の家臣経歴を持つ者たちは少なくない数が豊臣大名の家臣に転じており、その流通・貿易に関する技能はその後も陰に陽に命脈を保った)。 (どうですか?ゲームとかでも康長ら三好氏人脈を雇わないと四国介入できないみたいな縛り作ってみない?(現実の康長贔屓がの一因になったみたいに、絶対どっかで既存の家臣に裏切られそう)) 参考文献 : 論者によっては秀吉と康長の関係を織田政権時代からとする人もいるが、私は秀吉と康長が関係を構築していくのは信長死去後であると考えている : ただ、の性向的にあまり相手のことを考えず、自分の利益のみの拡大を図ってしまうのはよくある : 式部少輔は康長の息子ともされるが、書状中では「同名」すなわち同族という言及しかないので実際息子なのかどうかは不明である : ちなみに『』は兵糧のk欠乏には一切触れず、信長が兵糧を分配したので皆喜んだという記述に終始している。 なぜ喜んだのか、背景がないとわからんとも思うが、は書きたくなかったらしい : の入国がこの時であるというのは後世の編纂記録のみでしか確認できない hitofutamushima.

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