大鑑巨砲。 何故未だに大日本帝国海軍が大鑑巨砲主義者の集まりのように言われ...

大艦巨砲主義とは (タイカンキョホウシュギとは) [単語記事]

大鑑巨砲

プレイヤーレベル・戦力は翌朝の時点での数字です。 ある程度、オレンジ艦船の断片が集まり、赤艦化・赤+を目指す段階になると、高級万能図面と精密部品を集めることがより大事になってきます。 この2つのアイテム、高級万能図面と精密部品は赤艦化・赤+化だけでなくコンビネーションシステムでも使う上に、特に精密部品はかなり不足しがちになるので、どの順番で使って行くのかを考えることも有効になってきます。 こちらの記事に書いた内容に加えて、その後に誕生したコンビネーションシステムについても高級万能図面と精密部品の必要枚数を加筆すると、以下のようになります。 それが以下です。 しかし、そのような場合はほとんど考えにくく(特に敵が大砲攻撃・爆破攻撃の両方を揃えている場合がほとんど)効率は悪そうです。 (なお、これらの視点では、これらのコンビネーションシステムを捨てるのであれば、コンビネーションシステムを埋めるためだけに限定艦を集めることは不要になります。 例えば最後の大鑑巨砲が不要ならそのためだけにヴァンガードを集めることは不要、アポカリプスが不要ならそのためだけにH44、H42、H39を集めることは不要だということになります。 更に、1ターン目の最初の攻撃を最大限重視する人の中には、戦力は低いけど速度だけ速い不知火のような艦を大量に入れるなどして速度を最重視するプレーヤーもいます。 ブログの更新情報・修正情報はTwitterで発信しています。

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世界の大艦巨砲―八八艦隊平賀デザインと列強の計画案 (光人社NF文庫)

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思想 [ ] 背景 [ ] 19世紀末ごろから主に蒸気機関の発達によって、大型で高速の艦艇が作れるようになった。 同時には大型化するほど射程も伸び、威力も大きくなる。 そこで大型の軍艦に大型の砲をより多く搭載しようという考え方が大艦巨砲主義であり、19世紀末から20世紀前半まで主要海軍国で支持されていた。 のでイギリスとドイツが・を含むで衝突し、砲撃戦の重要性が再認識されたことで各国の大艦巨砲主義は一層強まった。 [ ] でも、時ので大艦巨砲と「艦隊決戦」を至上とする考え方が確立された()。 その後も後半期まで・上の主流となった。 長駆してくる艦隊を全力で迎撃・撃退するのが基本方針であり、その際の主役は戦艦とされ、・・等は脇役に過ぎないという思想があった。 [ ] 大艦巨砲主義の進展はとも関連しているという意見もある。 [ ] 「」が画期的だったのは、多数の主砲の射撃管制を可能とするの完成あってのことである。 頃まで各国の戦艦はと射撃を用いた射撃管制装置を主用していた。 しかし米英では以降の実用化により、着弾観測については光学式測距儀よりもレーダーを使用した電測射撃に移行していった。 これに対し、日独は米英に電子兵装で格段に後れを取り、電測測距と併用したものの、光学式測距儀を最後まで実戦で主用した。 なお、フランスはすぐに敗戦したため、射撃用レーダーを搭載したもののその効果は不明である。 イタリアは終戦時まで対空見張り用レーダーのみだった。 光学式の測距は特に遠距離射撃では誤差が大きく、近距離でも夜間、曇天、悪天候などで視界の悪い時にレーダー管制に劣っていた。 そのため、水上艦艇同士の戦闘において電測射撃が行えることはかなり優位だった。 ただ、初期の射撃用レーダーは測距性能は充実していたものの探知角が不足しており、時には光学観測射撃に後れを取ることもあった。 [ ] 他国より大型の戦艦に巨大な主砲を搭載するという文字どおりの大艦巨砲主義は、明け後には終焉した。 主砲口径の増大には歯止めがかかり、前代と同程度、あるいはやや小型化した主砲の採用例が多くなった。 これはの戦訓を元に、速力・防御力とのバランスの取れた戦艦の設計が重要視されたからである。 これ以前の戦艦は速度を、巡洋戦艦は防御力を妥協してを抑えていたが、そのような設計の問題点が明らかになった。 そこで速力も防御力もともに優れたポスト・ジュットランド艦(高速戦艦)が建造されたが、必然的に排水量も増え、主砲口径の増大を諦めざるを得なかった。 例外的に主砲口径を増大させた日本のは、排水量を抑えるための過度の集中防御と速力不足を問題視する見解もある。 航空機の発達と実績により中に航空機の優位が確立、の台頭が戦艦時代の終わりを告げる事となり、大和型(72,800 t 45口径46 cm 9門)と同等の(71,922 t 50口径16インチ砲 12門)全5隻がに建造中止された事をもって大艦巨砲主義は終焉を迎え、その後竣工したややなどもそれ以前に起工したものであり、以後戦艦の新造は行われていない。 賛否の意見 [ ] 大艦巨砲主義に関し、において日本海軍が米海軍と異なり、大艦巨砲主義に拘束され航空優位思想に転換できなかったという批判があるが、大艦巨砲主義や航空優位思想の意味は多義的なもので検証に耐えるものではなく、決戦に備えて戦艦を使用しなかったという語りも、事実は、或いは使用され或いは使用されようとし或いは戦艦としては見捨てられて使用されなかったのであり、機動部隊の建制化も重要な意味を持たない上に、アメリカ海軍が高速空母部隊を創設した時期は日本海軍も聯合機動部隊の発令をした時期であり、この批判はであるとする意見もある。 ただし、航空主兵論者の海軍中佐によれば、当時の日本海軍の航空主兵論者による大艦巨砲主義への批判は、日本海軍において、ほぼ使用されなかった戦艦に予算・機材が使用され、主力となった航空に十分に回らず、大艦巨砲主義の下で戦艦は何もしないことで航空部隊の行動の妨害になっていたことに対してである。 戦後、日本海軍の出身の大艦巨砲主義者は次のように語っている。 中将は「多年戦艦中心の艦隊に没頭してきた私の頭は転換できず、がに偉効を奏したのちもなお、機動部隊は補助作業に任ずべきもので、決戦兵力は依然、大艦巨砲を中心とすべきものと考えていた」と反省を語っている。 大佐は、大艦巨砲が航空主兵に敗れてなお「戦前の想定どおり、砲撃主体の艦隊決戦を挑むべきであった」と生涯主張し続けた。 [ ] 戦後、大艦巨砲主義に反対していた日本海軍の航空主兵論者たちは次のように語っている。 大佐は、海軍が大艦巨砲主義から航空へ切り替えられなかったのはでの犠牲を嫌う職業意識の強さが原因だったと指摘する。 「大砲がなかったら自分たちはするしかない。 多分そういうことでしょう。 思想を変えるということは、単にの構成を変えるだけでなく、大艦巨砲主義に立って築かれてきた組織を変えるとことになるわけですから。 人情に脆くて波風が立つのを嫌うのでは、なかなか難しいことです」と語っている。 中佐は、戦艦無用論も含むは戦前極端とも見られたが、太平洋戦争の経過がその見通しがほぼ正しかったことを証明したとして、特に航空関係者が嘆いていたのは、大艦巨砲主義の下で作られる戦艦の建造費、維持費など莫大な経費が浪費される割にほぼ戦局に寄与しないことであり、それを航空に回せばより強力なものができると考えていたと語っている。 歴史 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2019年5月) 大砲技術が発達しでが可能になると、舷側に穴を空けて多数の艦砲を並べると被害を受けやすくなった。 そのため砲数を減らし、一門あたりの威力を高め、敵艦砲に耐える装甲を施す事となり、の時代となった。 技術開発が進み、砲の大きさ(口径・口径長)が威力と比例するようになった。 から装甲艦への移行期には小型化が見られたものの、大砲・動力・技術の進歩に従って軍艦は巨大化していった。そして木製艦体に装甲を施した装甲艦から、艦体自体を鉄鋼製とした艦へと移行、大型の艦体と搭載砲を持つ戦艦と、小型のなどを目的とする巡洋艦へと分岐した。 1905年から1945年までに建造された戦艦の排水量グラフ。 のサイズやパワーは第一次世界大戦をはさんで急速に増大した。 多くの海軍国によるは1922年のでいったん終わりを迎えた 近代戦艦の始祖とされるのはである。 なお、から順次竣工したが、30. 5 cm砲4門の主砲を搭載、そしてその砲の威力に対応する装甲を持つ、の基本形を確立した。 しばらくは各国ともこの様式で戦艦を建造したが、にで完成した「」によって主砲4門の枠が外された。 この艦は従来の戦艦に比べて飛躍的に向上した攻撃力と機動力を有し、建造中の戦艦をも一気に旧式にするほどの衝撃を与えた。 そのためこれ以後世界の海軍は「ドレッドノート」を基準とし、これらをと称する。 そしての登場によって、30. 5 cmという主砲口径の枠も外され、戦艦の攻撃力は主砲の大きさで決まる時代となった。 敵艦より大きな主砲を備え、敵弾に耐えられる厚いを備えた戦艦がでは有利である。 その結果、戦艦とそれに搭載される主砲は急速に巨大化し、また数量で他国に負けないために大量建造が行われた。 その他の理由によって、前代より排水量・主砲が小型化する場合もあった巡洋艦とは対照的に、戦艦はひたすら大型化の一途をたどった。 日英独は戦艦と同じ巨砲を持つも建造し、中には大和型の25年も前に世界初の18インチ砲搭載艦となった「」等がある。 のジェットランド海戦でイギリスとドイツが弩級戦艦・超弩級戦艦を含む艦隊で衝突し、砲撃戦の重要性が再認識されたことで各国の大艦巨砲主義は一層強まり 、 [ ]日本では、日露戦争後の1906年からまでは戦艦が海軍力の主力として最重要視され、各国は巨砲を装備した新鋭戦艦の建造競争を展開。 「主力艦」たる戦艦部隊同士の砲撃戦によってひいては戦争そのものの勝敗が決まるとされ、やなどの戦艦以外の艦艇は主力艦の「補助艦」とされた。 戦艦を保有できない中小国の海軍でも、限定的な航続距離・速力のと呼ばれる艦を建造し、戦艦に近い能力を持とうとした例も多く見られた。 この時期には戦艦は戦略兵器であり、他国より強力な戦艦は国威を示すものだった。 「」の16インチ砲 戦艦の建造競争はのにおける締結により一旦中断()したが、のワシントン条約が失効すると、建艦競争が再開された。 しかし、主砲を巨大にする大艦巨砲主義は衰退し、速力と防御力のバランスが重視され、主砲口径も従来か従来以下のサイズにとどまったが、日本だけ例外であり、戦艦史上最大の46センチ主砲の64,000t級(「」「」)を建造した。 [ ] 大和型は6万トンを超す大艦であり、45口径46cm砲という巨砲を備えた大艦巨砲主義の申し子だった。 戦艦との戦闘では優位に立てたはずの大和型も航空機には勝てず、「大和」「武蔵」ともにアメリカ海軍航空母の集中攻撃を受けて沈没した。 また大和型の他にも・を問わず多数の戦艦が航空機やの攻撃で沈没した。 さらに日本は大和型よりも大型の51cm砲を積むの建造を予定していた(戦中に計画中止)。 ただ、米英仏独ソも35,000トン級を凌駕する巨大戦艦の建造を計画はしている。 しかし、直後に始まった第二次世界大戦では海軍の主役の座は航空母艦に移った。 かつて想定されていたような戦艦同士の砲撃戦はほとんど発生せず、戦艦の役割はもっぱら対地砲撃、や輸送船団の護衛、あるいはなどとなった。 ワシントン条約期間中に建造されたフランス戦艦(竣工)以後、第二次世界大戦後までの9年間に建造された戦艦は27隻だった。 第二次世界大戦前または戦中に建造が開始され、大戦中にが4隻就役し、戦後に完成したイギリスの「」とフランスの「」を最後に新たな戦艦は建造されていない。 1941年12月、太平洋戦争が開始。 など緒戦の航空戦で、主役である戦艦を出す前の「」としての航空機が予想以上の戦果を出し、(長官は中将)はを半周するほど縦横無尽の活躍を見せた。 それによって航空戦力の評価が高まり、戦前から訴えられていたが勢いを増した。 1942年(昭和17年)4月28日及び29日、大和で行われた第一段作戦研究会で第一航空艦隊航空参謀中佐は大艦巨砲主義に執着する軍部を「はを造り、日本海軍は戦艦「」をつくり、共に笑いを後世に残した」と批判して一切を航空主兵に切り替えるように訴えた。 第二艦隊砲術参謀は大和の主砲射撃を見て1942年(昭和17年)5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。 的を得つつある」と残した。 海軍はそれでも大艦巨砲主義を捨て切れなかったが、での第一航空艦隊の壊滅により、思想転換は不十分だが航空戦力の価値が偉大と認め、航空優先の戦備方針を決定する。 しかし、方針、戦備のみで施策、実施などまで徹底していなかった。 ・力共に不十分な日本では航空と戦艦の両立は無理であり、艦艇整備を抑える必要があったがそこまで行うことができなかった。 は航空主兵に変更されたが、第一艦隊、第二艦隊は従来のままで、第三艦隊でを獲得してから戦艦主兵の戦闘を行う考えのままだった。 1943年(昭和18年)第三段計画発令で連合艦隊作戦要綱を制定発令し、航空主兵を目的とした兵術思想統一が行われた。 に第一艦隊が廃され、翌月にが創設されたことにより、ようやく大艦巨砲主義が終焉を迎え、が最重要視されることとなった。 その機動部隊と(陸上)航空兵力は、、、など戦いで全く戦果を挙げることなく大打撃を受けた。 レイテ沖海戦に参加した機動部隊にもはや攻撃力はなく、部隊として壊滅した。 同作戦でレイテ湾に突入するはずだった戦艦部隊は目的を達しないまま反転し、その過程で大和型戦艦「武蔵」がによってされた。 翌年4月には、沖縄に向かう大和がこれも航空攻撃によって撃沈され()、日本海軍は大艦巨砲と航空主兵双方がアメリカ海軍の航空主体の物量に敗れる形で終焉を迎えた。 なお、戦艦が最後に実戦で使われたのは1991年の。 「」と「」が出撃し、一定の戦果を挙げている。 出典 [ ]• 日本史広辞典編集委員会編『日本史広辞典』山川出版社、1997年10月22日 第一版第一刷発行 、1281頁。 日本造船学会編『日本造船技術百年史』日本造船学会、1997年5月、51頁。 Gardiner, Robert, ed. , The Eclipse of the Big Gun: The Warship, 1906—45. Conway's History of the Ship, London: Conway Maritime Press, 30 May 1992. , p. 奥宮正武『大艦巨砲主義の盛衰』まえがき• 森雅雄「城西国際大学紀要 21 3 , 1-13, 2013-03• 奥宮正武『大艦巨砲主義の盛衰』朝日ソノラマ344-347頁• 千早正隆ほか『日本海軍の功罪』プレジデント社263頁• 千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社300頁、源田實『海軍航空隊、発進』文春文庫185頁• 奥宮正武『大艦巨砲主義の盛衰』朝日ソノラマ344-347頁• 戦史叢書95海軍航空概史268頁• 淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウェー』学研M文庫111-113頁• 戦史叢書95海軍航空概史268頁• 戦史叢書95海軍航空概史269-270頁• 戦史叢書95海軍航空概史348頁 関連項目 [ ]•

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資料解析の源泉は「造船の神様」と称賛された平賀譲海軍造船中将が個人的に秘匿してきた膨大な関係資料を東京大学がデジタル化し公開したもので、俗説を排して従来流布されてきた「神話」に迫り、その実像が明らかにされる。 プロローグでは「机上の空論」だが構想された金田秀太郎海軍中佐(のち中将)の大正初期の50万トン戦艦(全長670m、42ノット、16吋砲100門)が紹介される。 「長門」級戦艦の特徴ある前檣楼の基本アイディアを作った人物であったことは初めて知った。 第一章は平賀デジタルアーカイブを渉猟して「長門」級の設計は平賀だけでなく前任者の山本開蔵大佐との共同によるものであることを解明。 むしろ平賀は採用されなかった「変体」と称される独自の改造案を出しそれ以後に起きたチームワークを乱す傾向はこの時にも表れていたようである。 「加賀」級以後はたしかに平賀デザイン。 第二章では防御力不足が巡洋戦艦から高速戦艦に進んだプロセスが明らかになる。 ここでも排煙に難のあった「長門」級の煙突を屈曲型に改造するにあたりアイディアを出した部下の藤本造船官には「こんなみっともない格好にできるか」と一喝したにもかかわらず後でちゃっかり採用したエピソードも(p118)。 結局はワシントン海軍軍縮条約で建造中止になるのだが「天城」級、「紀伊」級、超「紀伊」級、さらに13~16番艦も設計される。 昭和31年発行の福井静夫著の『日本の軍艦』に掲載された13番艦の画像は<空想図>であり平賀資料から発見された図から起こしたものが本書図46に掲載されている。 平賀が推奨したらしい41㎝4連装砲塔のデザインも図54にある。 第三章は「金剛」代鑑を巡る平賀対藤本の確執トラブルの背後に裏から手を回して内密に藤本デザインを入手して自らの対抗案を作った経緯が(一部推定を含むけれども)明らかになる(図58と59)。 さらに「天城」の空母への改造計画についても触れるが平賀の役割は鮮明ではない。 第四章は帝政ロシア・ソ連の戦艦が対象。 第一次大戦以前にイタリアとドイツの民間会社の提案を基本に四砲塔を中心線水平配置とした弩級戦艦ガングート級から、第二陣のインペラトリッサ・マリア級、巡洋戦艦のボロジノ級、さらにはスターリンが主導したソビエツキー・ソユーズ級とその後継計画までが幾多の未見の図面(ちなみに私はS. 第五章は米国の「極限戦艦」やら最後の戦艦・英国のヴァンガードやらナチドイツの「H」級戦艦計画などについて。 卓見は「各国においては自国の戦艦建造史がいろいろ発表されており…海軍の公式資料がふんだんにもちいられている」が日本では「どれだけの公文書を保管管理して後世にのこしてきたか・・・はなはだ疑問なしとはいえない」という一文であろう(p317)。 なかなか明言できることではない。 八八艦隊計画戦艦の設計の変遷を追う事を目的とするならば、現状最も濃密な内容。 長門原案からの改正、陸奥変体、加賀型が巡洋戦艦的プランから陸奥変体を元に最終案へと変貌していく流れ、 天城型がレキシントン級を意識した超高速巡戦から高速戦艦へと方針転換する流れ等が 分かりやすい大量の図解とともに詳細に解説されている。 この限りにおいて、大判の「図解・八八艦隊の主力艦」「帝国海軍の礎・八八艦隊計画」よりも資料的価値がある 惜しむらくは、これが文庫版サイズである事。 現物の写真等は無いので そういうのを期待する人は上記の大判本の方が向いている。 また、帝国海軍のものとしては他にも50万t戦艦や赤城の空母化設計について、 ロシア帝国(ガングート試案やボロジノ級以降の設計案)、ソ連海軍(ガングート大改装案やソユーズ試案等) アメリカ(ダニエルプラン以降の戦艦計画)、イギリス(L3・G3級戦艦当時の試案やモナーク代艦等)と 尋常じゃない量の戦艦設計試案の図面が見られる為、各国未成戦艦についても超一級の資料としてお勧めできる。

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