つつ いれ いみ。 おせち料理!黒豆の意味とは何?

【事実】「簿記2級って意味ないの?」現役経理が実態を教えます

つつ いれ いみ

論点という言葉をよく聞くことはあっても、「論点とは何か」について明確に説明できる人は、そう多くないかもしれませんね。 そこでまず、論点とは何なのかについてご説明しましょう。 論点とは、 文章を貫く問い のことです。 筆者の問題意識 であり、独自の切り口とも言われます。 例えば、「社会人一年目として何を学ぶべきか?」「良い文章は何が秀でているのか? 」といったクエスチョンは論点です。 しかし論点は、文章にして人に届けようとした途端、次のような問題を起こすことがあります。 それは、 自分が述べようとしていることの論点と相手の期待している論点が、すれ違ってしまうということ。 就職活動中の学生が、書類の自己アピール欄に「学生時代に最も頑張ったことは音楽活動である」と書いたとしましょう。 学生のここでの論点は「私の音楽に対する情熱はどれほどか?」です。 一方、企業の採用担当者が書類の自己アピール欄に書かれる内容から知りたいことは、「応募者が自社の仕事への適性があるか?」ということのはずですよね。 つまり、学生がいくら音楽活動を頑張ったことをアピールしたとしても、それでは学生・採用担当者双方の論点が噛み合っていません。 学生の主張が企業側に響かなくても、当然と言えます。 逆を返すと、「音楽活動で培った経験を、いかに仕事に還元できるか?」という論点で書けば、相手の印象に残る文章に様変わりするのです。 このことは、就職活動だけでなく、仕事上の日々のメールや、書類の作成、記事のライティングなどでも同様のことが言えます。 まずは、メッセージを伝える相手、つまり、上司や取引先、読者が、自分に何を期待しているのかをキャッチしましょう。 そして、 双方の興味が交差する論点を用意するのです。 互いの論点整理こそが、他人に響く良い文章を書く第一歩です。 テーマと論点の違い 次に、多くの人が混同しやすい、「テーマ」と「論点」の違いについて説明します。 例えば、「世界平和」というテーマが与えられ、そのまま「世界平和について」という文章を書いたとしましょう。 しかし、「世界平和について」は文章の大枠でしかありませんから、このまま書くと、あまりにも壮大で非常にぼやけた文章になる可能性が高くなってしまいます。 ですから、テーマをそのまま論点にすればよいのではありません。 テーマから問いを立てて論点を絞り込む、つまりピントを合わせるという作業が必要 なのです。 情報整理術を説いた書籍『「超」整理法』などのベストセラーで知られる野口悠紀雄氏は、文章術について説いた著書『「超」文章法』のなかで、次のように述べています。 そこで『BRUTUS』という雑誌を見てみましょう。 この雑誌は、ジャンルにとらわれず様々なテーマから企画を立てていることが特徴の雑誌なのですが、毎号、論点がテーマから明確に絞り込まれています。 以下はその一例です。 壮大なテーマから、しっかり問いを絞り込んでいます。 このようにテーマと論点は異なるもの。 文章を書く際には、両者を混同しないように気を付けてください。 テーマは「枠」であるのに対して、論点は「点」のイメージです。 ではここからは、論点を定めるコツを紹介します。 問い(論点)には必ず答え、すなわち「意見」が存在しています。 (論点)良い文章は何が秀でているのか?• (意見)良い文章は「論点」が明確で独特である。 先に意見を明確にしてから論点を言葉にするも良し。 逆に、 先に論点を定めてから意見を導き出してもかまいません。 大事なのは意見と論点が対応し、一貫したメッセージを発信していること です。 これは仕事だけでなく大学の論文などすべての文章に言えることです。 しかし、論点と意見が一貫しないことはよく起こります。 次の例を見てください。 (論点)ライターの心構えは何か?• (意見)良い文章は「論点」が明確で独特である。 この場合は、論点に対して意見が答えになっていませんね。 Webサイト『ほぼ日刊イトイ新聞』で「おとなの小論文教室。 」を連載中の山田ズーニー氏(文章表現インストラクター)によると、執筆者が、文章を書いているうちに夢中になって文章が脱線してしまうことはよくあるそうです。 だから 常に文章を俯瞰し、自分の取り上げた「問い」に対して、自分の意見・結論が打ち出せているかをチェックすべきだと指摘しています。 意見と論点はまさに表裏一体。 しっかりと両者を呼応させましょう。 論点を定めるコツ2:論点は「疑問形」にする.

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つつの意味

つつ いれ いみ

論点という言葉をよく聞くことはあっても、「論点とは何か」について明確に説明できる人は、そう多くないかもしれませんね。 そこでまず、論点とは何なのかについてご説明しましょう。 論点とは、 文章を貫く問い のことです。 筆者の問題意識 であり、独自の切り口とも言われます。 例えば、「社会人一年目として何を学ぶべきか?」「良い文章は何が秀でているのか? 」といったクエスチョンは論点です。 しかし論点は、文章にして人に届けようとした途端、次のような問題を起こすことがあります。 それは、 自分が述べようとしていることの論点と相手の期待している論点が、すれ違ってしまうということ。 就職活動中の学生が、書類の自己アピール欄に「学生時代に最も頑張ったことは音楽活動である」と書いたとしましょう。 学生のここでの論点は「私の音楽に対する情熱はどれほどか?」です。 一方、企業の採用担当者が書類の自己アピール欄に書かれる内容から知りたいことは、「応募者が自社の仕事への適性があるか?」ということのはずですよね。 つまり、学生がいくら音楽活動を頑張ったことをアピールしたとしても、それでは学生・採用担当者双方の論点が噛み合っていません。 学生の主張が企業側に響かなくても、当然と言えます。 逆を返すと、「音楽活動で培った経験を、いかに仕事に還元できるか?」という論点で書けば、相手の印象に残る文章に様変わりするのです。 このことは、就職活動だけでなく、仕事上の日々のメールや、書類の作成、記事のライティングなどでも同様のことが言えます。 まずは、メッセージを伝える相手、つまり、上司や取引先、読者が、自分に何を期待しているのかをキャッチしましょう。 そして、 双方の興味が交差する論点を用意するのです。 互いの論点整理こそが、他人に響く良い文章を書く第一歩です。 テーマと論点の違い 次に、多くの人が混同しやすい、「テーマ」と「論点」の違いについて説明します。 例えば、「世界平和」というテーマが与えられ、そのまま「世界平和について」という文章を書いたとしましょう。 しかし、「世界平和について」は文章の大枠でしかありませんから、このまま書くと、あまりにも壮大で非常にぼやけた文章になる可能性が高くなってしまいます。 ですから、テーマをそのまま論点にすればよいのではありません。 テーマから問いを立てて論点を絞り込む、つまりピントを合わせるという作業が必要 なのです。 情報整理術を説いた書籍『「超」整理法』などのベストセラーで知られる野口悠紀雄氏は、文章術について説いた著書『「超」文章法』のなかで、次のように述べています。 そこで『BRUTUS』という雑誌を見てみましょう。 この雑誌は、ジャンルにとらわれず様々なテーマから企画を立てていることが特徴の雑誌なのですが、毎号、論点がテーマから明確に絞り込まれています。 以下はその一例です。 壮大なテーマから、しっかり問いを絞り込んでいます。 このようにテーマと論点は異なるもの。 文章を書く際には、両者を混同しないように気を付けてください。 テーマは「枠」であるのに対して、論点は「点」のイメージです。 ではここからは、論点を定めるコツを紹介します。 問い(論点)には必ず答え、すなわち「意見」が存在しています。 (論点)良い文章は何が秀でているのか?• (意見)良い文章は「論点」が明確で独特である。 先に意見を明確にしてから論点を言葉にするも良し。 逆に、 先に論点を定めてから意見を導き出してもかまいません。 大事なのは意見と論点が対応し、一貫したメッセージを発信していること です。 これは仕事だけでなく大学の論文などすべての文章に言えることです。 しかし、論点と意見が一貫しないことはよく起こります。 次の例を見てください。 (論点)ライターの心構えは何か?• (意見)良い文章は「論点」が明確で独特である。 この場合は、論点に対して意見が答えになっていませんね。 Webサイト『ほぼ日刊イトイ新聞』で「おとなの小論文教室。 」を連載中の山田ズーニー氏(文章表現インストラクター)によると、執筆者が、文章を書いているうちに夢中になって文章が脱線してしまうことはよくあるそうです。 だから 常に文章を俯瞰し、自分の取り上げた「問い」に対して、自分の意見・結論が打ち出せているかをチェックすべきだと指摘しています。 意見と論点はまさに表裏一体。 しっかりと両者を呼応させましょう。 論点を定めるコツ2:論点は「疑問形」にする.

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部首「勹(つつみがまえ)」の意味・成り立ち・読み方・画数を学習

つつ いれ いみ

これは、Stand(シュタント)という名詞の縮小形で、Stand には、「立っている状態」とか、「売店・スタンド・キオスク」などの意味があるので、後の意味から、「小さな売店」の意味が出て来て、前の「立っている状態」から、「ちょっと立っている状態」で、「立ち話」とか、立って歌をうたう「セレナーデ」の意味になります。 セレナーデは何語かということですが、日本語です。 何語から来たかというと、おそらくドイツ語です。 ドイツ語は、Serenade と書いて「ゼレナーデ」と読みます。 最初が「セ」でなく「ゼ」ですが、英語だと、serenade(セリネイド)、フランス語だと s[e]r[e]nade(セレナード)で、「セレナーデ」とは読みません。 「小夜曲」という訳語を当てますが、「曲のタイプ・種類」のことと、もう一つ、女性が二階にいるとして、一階の家の外で立って、男性が、恋の歌や曲を二階の女性の部屋の窓越しに歌いかけ、演奏することを意味します。 窓の外で立って歌うので、「シュテントヒェン(ちょっと立つ状態)」とドイツ語で言います。 また、このとき歌ううたの曲が「セレナーデ」です。 元々イタリア語の serenata(セレナータ)から来た言葉で、発祥はイタリアです。 serenata は、serenare(セレナーレ,静める、なだめる、落ち着かせる)という動詞の過去分詞派生形容詞の女性形の名詞化で、「なだめさせた・落ち着かせた」などの意味ですが、恋の歌や、曲を演奏して、「なだめた」とは変ですが、夜の静けさと関係あるのかも知れません。 (また、恋の歌をうたい、演奏して、女性の心を慰め、穏やかにするのかも知れません)。 serenare は、ラテン語の serenus, serena から来ており、これは、「静かな、落ち着いた」というような意味です。 Serena というのは、アメリカでのセーラームーンの名前です(Serena Tsukino と言います。 月光の下、セレナーデを歌うような名です)。 A ベストアンサー イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、 狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。 つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の 体系です。 一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を イデオロギ-と言うんです。 例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。 だから賛成や反対といった意見が出てきますね。 しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。 イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。 例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに 組織されています。 つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。 しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して 公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。 ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。 一応これは一つの例ですけど。 というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。 こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。 この説明で理解してくれると思いますけどね。 イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、 狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。 つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の 体系です。 一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を イデオロギ-と言うんです。 例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。 だから賛成や反対といった意見が出てきますね。 しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。 イデオ... Q 皆様、こんにちは。 最近何かとよく耳にする『更迭』と『罷免』ですが、意味が同じように思えてなりません。 他にも『解任』などもあったりして どちらも、『人を辞めさす』という意味で間違いないと思いますが。 gooの国語辞典で調べると、『罷免』は単に辞めさす事。 『更迭』は他の人に変える事とでてきます。 これは単にメディアがきちんとした使い方をしていないという事なのでしょうか? なんだかうまくまとまりませんが、『更迭』と『罷免』について分かりやすい用法や明確な違いをご存知の方がいらっしゃれば是非教えて下さい。 よろしくお願い致します。 A ベストアンサー 中傷だけで終わるのも何なので補足します。 Nagatosさんは、英米人なら絶対しないような間違いと、する間違いの区別ができてないようです。 質問者さんは、「Can you celebrate? 」はどっちですか?と聞いているみたいですが、それを理解されてないので、議論が平行線になってるみたいですね。 例えば日本の黒板消しの商品名で「Clean Elaser」というのがありました。 これは明らかに米英人はしない間違いです。 意味不明です(「きれいに消せる黒板消し」と言いたいのだろうが、「黒板消し自体がきれい」という意味にしか聞こえない)。 こんな間違いは英語の歌詞にもないでしょう。 結論を言うと、「Can you celebrate? 」は微妙なところだと思います。 「Clean Elaser」ほどひどくはないけど、英米人は言わないでしょう。 でも、歌詞になら使ってもおかしくはない・・かな??という感じです。 聞くひとも、意味はかろうじて推測できるかなという程度だと思います。 賢いひとなら、こんな詩は書かないでしょうね。 慣用だからとあきらめずに、正しい英語を使おうと努力する姿勢を評価したいですね。 中傷だけで終わるのも何なので補足します。 Nagatosさんは、英米人なら絶対しないような間違いと、する間違いの区別ができてないようです。 質問者さんは、「Can you celebrate? 」はどっちですか?と聞いているみたいですが、それを理解されてないので、議論が平行線になってるみたいですね。 例えば日本の黒板消しの商品名で「Clean Elaser」というのがありました。 これは明らかに米英人はしない間違いです。 意味不明です(「きれいに消せる黒板消し」と言いたいのだろうが、「黒板消し自体がきれい」という... A ベストアンサー 「以」がつけば、以上でも以降でもその時も含みます。 しかし!間違えている人もいるので、きちんと確認したほうがいいです。 これって小学校の時に習い以後の教育で多々使われているんすが、小学校以後の勉強をちゃんとしていない人がそのまま勘違いしている場合があります。 あ、今の「以後」も当然小学校の時のことも含まれています。 私もにた様な経験があります。 美容師さんに「木曜以降でしたらいつでも」といわれたので、じゃあ木曜に。 といったら「だから、木曜以降って! 聞いてました? 木曜は駄目なんですよぉ 怒。 と言われたことがあります。 しつこく言いますが、念のため、確認したほうがいいですよ。 「以上以下」と「以外」の説明について他の方が質問していたので、ご覧ください。 goo. php3? 普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。 パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。 残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。 当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。 従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。 ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。 それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。 例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。 これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。 風に抵抗できない。 いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。 しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。 しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。 少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。 人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。 自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。 そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。 ……このような意味の比喩ではなかったかと思います。 この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。 パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。 彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。 パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。 暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。 弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。 パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。 「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。 普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。 パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し... A ベストアンサー 煩悩は、仏教の用語で、元々、かなり難しい思想的意味を持っていましたし、煩悩とは何かというので、色々な議論もありました。 しかし、それはともかく、具体的な例の話で、日常語での「煩悩」の使い方というか、意味を考えてみましょう。 「煩悩」は、「煩」と「悩」から出来ています。 「煩」は、「わずらわしい」という意味で、「わずらわしい」と入れて変換すると、「煩わしい」と出てきます。 また「悩」は、「なやみ」のことで、「なやみ」と入れて変換すると、「悩み」と出てきます。 煩悩とは、わずらわしく、悩みになることだ、ということになります。 しかし、そんなに煩わしく悩む、困ったことなのかというと、日常の用法では、ちょっとニュアンスが違います。 ここは、仏教のお坊様に出てもらって、具体的な使い方の説明をしましょう。 仏教では、覚りを開くため、修行する人が、元々「坊様」だった訳です。 従って、元の仏教の「戒め」では、修行者は、例えば女性となれなれしく口をきいてはならないとか、女性の姿もまともに見てはならないなどとなっていました。 女性の美しさなどは、「迷い」の元だというのです。 しかし、坊様がすべてそうではないでしょうが、すけべな坊様もいる訳で、道で通りがかりの、和服の美人を見て、ほわ、と口を開けて見とれ、なんちゅう、綺麗なべっぴんさんや、いや目の毒じゃ、これも「煩悩、煩悩」などと云いながら、女性の後ろ姿を見送ったりします。 別に和服でなく、洋装でも構わないのです。 また、坊様も、そんな女を見るとすぐ見とれるような人は珍しいでしょうが、やはり、坊様も男ですから、美人と道ですれ違うと、ふと、心が動くこともあるのです。 あるいは、仏教では、イスラム教と同様、精神の安定や、日常の心の状態を興奮させたり、おかしくする飲み物などは禁じています。 例えば、麻薬などは無論駄目ですし、煙草やお酒も駄目なはずです。 しかし、日本の坊様は、何時頃からか、「般若湯(はんにゃとう)」と称して、酒を店で買って飲んでいたりします。 坊様が、良い酒を味わいながら飲みつつ、何という味わい、この酔い心地、さすがに銘酒は違う。 極楽じゃ。 しかし、考えてみれば、これも「煩悩、煩悩……仏様よ、お許しあれ、南無阿弥陀仏、いやもう一杯、何ともうまい」などと云っていると、どこが、煩い、悩みの煩悩か分からないでしょう。 また仏教では、生き物のいのちを大切にせよと教え、殺生を禁じ、従って、動物の肉は無論、鳥の肉も、魚も食べてはならないことになっているのですが、それも何のことかです。 酒のさかなに、コイのあらいを食べつつ、いい気分になって来て、坊様が、いや、浮き世もまた楽しいぞよ、酒はうまいし、ねえちゃんは綺麗だ……などと歌っていると、「生臭坊主」ということになるのですが、以上は極端に戯画化しているので、日本では、昔から、坊様が、妻帯し、子供がおり、酒は飲み、魚も食べ、それで別に社会から糾弾などされていません。 大酒を飲み、酔っぱらって、寺の本堂で乱交パーティを開くような坊様は、それは別に坊様でなくとも、普通の人でも社会から糾弾されます。 仏教の坊様にとっては、女性と触れたり、メイクラヴすること、酒を飲んだり魚を食べたりすることは、仏教の教えに反することで、こういう「欲望」を、修行の妨げになる「煩悩」と呼ぶのですが、煩悩というのは、多くの坊様の日常生活から云うと、自然なことのようです。 もう一つ、坊様ではありませんが、一般に、「子煩悩」という言葉があります。 これは、別に、子供が煩わしく悩みの種で、何かの邪魔になるのかと云えば、そうではなく、子供が可愛く、何時も子供のことを考え、細かいことにも、子どものためにと、あれこれ気も身も使う親のことを、こう呼びます。 別に、子どもが、何かの「妨げ」になっているのではないのです。 親にしてみれば、ふと、思うと、「ああ、おれは、何と子どものことばかり思っているのか。 これも煩悩か」などとなります。 「煩悩」というのは、仏教の教えとか、人間の生き方はいかにあるか、などということの前では、何か安楽な、気持ちよい、楽しい方にばかり気が向くようで、困ったことだという考えもある他方、「自然な欲求」「自然な望みのおもむく方向」であって、煩悩だが、しかし、これもまた良しなどというものです。 これは、仏教の教義として、煩悩に迷う人の姿こそ、すなわち、仏の姿に他ならないという考えもあるのです。 煙草をやめないと、肺ガン確実と云われていて、それでも吸いたいという人の場合、煩悩とは云いません。 また、大学受験中なのに、異性のことに意識が向いて勉強に集中できない高校生も、それを煩悩とは云いません。 (ただし、高校生の親が、寺の住職だったりして、子どもに、そんな煩悩は振り払え、と説教するかも知れません)。 煩悩というのは、本来の仏教の教えでは、たいへん厳しい、覚りの道にあって、克服せねばならない誘惑や欲望だったのですが、「煩悩すなわち仏」というような考えは、人間は自然に振るまい、自然に生きるのがやはり一番であるという考え方でしょう。 肺ガン寸前の喫煙者や、受験勉強に必死な高校生にとっては、喫煙や、恋愛は、自然のままを楽しもうなどということではないのです。 人間は、欲望が強すぎると、色々不都合なことが起こることが、或る程度分かっているともいえます。 分からない人、自制がきかない人は、酒に溺れて身を滅ぼすとか、守銭奴になって、世人の顰蹙を買うなどとなり、そういう人自身は、煩悩も何もないでしょう。 しかし、そういう人を横目で見ていると、酒を飲み、恋愛をし、ギャンブルで小銭を失い、自堕落な生活を少々しても、歯止めがかかっていて、ああ、これが煩悩というものか……で片が付きます。 「わかっちゃいるけどやめられない」というのは、確か古い歌の言葉ですが、そういう心境の「分かっている」のが、煩悩だと分かっているということで、度を超さなければ、やめる必要もない訳です。 本格的な修行をしている坊様にとっては、厳しいことでまた別ですが、普通には、煩悩はまた楽しいことなのです。 本来しない方がよい、というのをするのは何とも楽しいことなのでしょう。 世界中の文化がそうだとは分かりませんが、日本は、煩悩を楽しむ文化です。 煩悩は、仏教の用語で、元々、かなり難しい思想的意味を持っていましたし、煩悩とは何かというので、色々な議論もありました。 しかし、それはともかく、具体的な例の話で、日常語での「煩悩」の使い方というか、意味を考えてみましょう。 「煩悩」は、「煩」と「悩」から出来ています。 「煩」は、「わずらわしい」という意味で、「わずらわしい」と入れて変換すると、「煩わしい」と出てきます。 また「悩」は、「なやみ」のことで、「なやみ」と入れて変換すると、「悩み」と出てきます。

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